デジタルになってもハンコ文化はなくならない――舟橋正剛(シヤチハタ代表取締役社長)【佐藤優の頂上対決】
河野太郎・規制改革担当大臣の「脱ハンコ宣言」から1年。リモートワークの障害としてもやり玉に挙がったハンコの会社は、いまどうなっているのか。朱肉不要のハンコで9割のシェアを持つシヤチハタは、既存の電子印鑑事業を大きく伸長させる一方、ユニークなハンコ関連商品も売れていた。
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佐藤 私の世代にとって、シヤチハタは非常に馴染み深い会社です。小学校の時、母親が連絡帳に押してくれた認印から始まって、学校でも職場でも、必ずどこかにシヤチハタのスタンプ台が置いてありました。
舟橋 ありがたいことです。
佐藤 朱肉の要らないハンコのシェアは9割だそうですね。
舟橋 はい。ただ、それはもう小さな市場のことですから。
佐藤 私の家の玄関にも、認印用にシヤチハタのハンコがあります。日々の生活の中にあって目立ちませんが、押印は何かを認めるという行為ですから、人それぞれの人生の物語と深く結びついているのがハンコだという気がします。
舟橋 その通りだと思います。
佐藤 それが昨年10月、当時の河野太郎規制改革担当大臣が脱ハンコを宣言し、行政手続き上の捺印の99%は廃止できる見込みだと述べたことで、突然注目を浴びましたね。
舟橋 そうなのですが、弊社は朱肉を使うハンコの会社ではありません。取り扱っているのは、印面がゴム製の、インキ浸透式のネーム印や日付を押すデータ印、オーダーメイドの住所印などです。それから朱肉やスタンプ台も主力商品ですが、朱肉を付けて押印する硬いハンコは扱っていないのです。
佐藤 河野大臣の話は行政文書の中でハンコをなくすというもので、もともとそこにシヤチハタのゴム印は使われていませんよね。市区町村に提出する各種書類でも、一般的に「シヤチハタ不可」です。
舟橋 ゴム印は軟らかく、変形しやすいというのがその理由です。
佐藤 だから本来ならシヤチハタに大きな打撃となるわけではない。
舟橋 そうですね。それよりインパクトがあったのは、新型コロナの感染拡大でリモートワークが始まると、「ハンコを押すためだけに出社する」と、ハンコが否定的に報じられたことです。これによって、ハンコ自体が悪者になってしまった。
佐藤 行政文書の脱ハンコから、一般企業にもそうした流れができました。
舟橋 そもそもの問題は、決裁や承認の仕組みがリモートワークやデジタル化に対応していなかったことです。私にしてみれば、それをわかりやすく言うために、ハンコがスケープゴートになったという印象です。
佐藤 売り上げにはどのくらい影響しましたか。
舟橋 主力商品で1~2割減といったところでしょうか。ただそれが脱ハンコの動きによるものなのか、コロナの影響なのか、あるいはそれ以前からあるペーパーレスやDX(デジタルトランスフォーメーション)といった大きな流れの中の需要減であるのか、いまはまだきちんと分析できていません。ただ今後、紙にハンコを押すという行為自体が減っていけば、ネーム印やスタンプを使う場面も減るでしょうから、会社としては危機感を強めています。
佐藤 ハンコには文化という要素もあります。これまで日本では欧米のようなサイン文化は浸透しませんでした。小切手もそうですよね。一時期、銀行がずいぶん普及させようとしましたが、定着しなかった。
舟橋 確かにサイン文化が日本に取り入れられていれば、このタイミングではなく、早くにハンコ廃止の動きが起きていたでしょうね。
佐藤 そうですよ。生物学者のリチャード・ドーキンスは、文化にも遺伝子があると言っています。それをミームと呼びますが、ハンコ文化の遺伝子は日本において意外に強いと思います。
舟橋 アメリカのベンチャー企業で、世界の電子署名分野のトップランナーとなった「ドキュサイン」という会社があります。弊社は2015年に業務提携したのですが、先方からのオファーでした。彼らは欧米では手書きサインをデジタル化して認証していますが、日本でマーケティング調査をした結果、ここでシェアを取るには、やはりハンコを認証の証とすることが必要だと考えたそうです。
佐藤 ちゃんとわかっているんですね。それにもう一つ、ハンコがなくならないのは、サインは数が増えると対応できなくなるからです。ロシアのエリツィン大統領は1年間で大統領命令を1600本くらい出していました。そうすると、サインからハンコになる。あの時は、大統領自動サイン機みたいなものがありましたね。また、第2次世界大戦中、ヒトラーから迫害を受けたユダヤ人に「命のビザ」を出した在リトアニア日本領事館の杉原千畝(ちうね)も、最初はサインで書類を作っていましたが、それでは間に合わなくなり、途中からゴム印にしています。
舟橋 何百、何千となれば、サインでは対応できないでしょうね。
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