土光敏夫が東芝再建で見せた“根性と執念” 「役員は10倍働け。私はそれ以上働く」

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私はラッキーな男

「真っ先に考えたのはブラジルへの移住」だった。会社が息を吹き返したのは、石川島ブラジル造船所を設立してからだった。老後はブラジルで過ごすことに決めていた。よもや、東芝社長、経団連会長、臨時行政調査会会長になるなどとは、夢夢考えていなかった。

 土光敏夫は石坂泰三同様にラッキーな男だった。

 金融引き締めによる大不況に喘いでいた1950(昭和25)年、石川島重工業の再建社長に就任。その翌日に朝鮮戦争が勃発し、朝鮮戦争特需によって会社が息を吹き返したことは、既に触れた通りである。

 東京オリンピック特需の反動による「昭和40年不況」の最中の1965年、東芝の再建社長に就いた時も、またもや幸運の女神がほほ笑んだ。間もなく、「いざなぎ景気」が到来したからである。

 無事、再建を果たし、玉置敬三に後事を託したが、またまた土光の出番が回ってくる。日本経済団体連合会の第4代会長に推されたのである。

 1973(昭和48)年秋、第一次石油ショックが勃発した。一瞬のうちにトイレットペーパーが店頭から消えた。企業は「千載一遇のチャンス」とばかりに、製品を抱え込み売り惜しみをした。そして価格が暴騰すると、すかさず売り抜け、莫大な利益を得た。

経団連会長

 狂乱物価に対する国民の批判の矛先は、財界の総本山の経団連に向かった。財界に降りかかった火の粉は振り払わなければならない。

 経団連会長は植村甲午郎だった。調整型で非常時には向いていない。植村は修羅場に強い副会長の土光に会長への就任を打診した。土光は固辞した。副会長としても、本来、言うべき発言を控えてきたが、それには理由があった。

 石坂泰三が経団連会長を退任する時、自分の代わりに土光を副会長に押し込んだ。「会長(石坂)の独断を許せない」と、当時の財界人が大騒ぎした。経団連の副会長には経団連にある各委員会の委員長経験者しか昇格できないという不文律があったからだ。副会長に就任する時でさえ、内部からクレームが相次いだ。会長となれば、猛反対が起きるのは目に見えていた。

 経団連会長の植村は「経団連副会長たちへは根回しは自分がするから」と石坂に言い、石坂に土光を説得するよう懇請した。

 石坂は土光にこう呼びかけたという。

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