土光敏夫が東芝再建で見せた“根性と執念” 「役員は10倍働け。私はそれ以上働く」

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威嚇で機先を制する

 土光が正式に石川島重工業の社長に就任したのは、1950(昭和25)年6月24日。土光54歳。その翌25日に、朝鮮戦争が勃発した。朝鮮戦争特需が神風となり、その後の日本経済の復興に大きく貢献した。

〈山本五十六聯合艦隊司令長官の「やってみせ、言ってきかせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」という言葉を好む土光の打った手は、徹底した合理化の率先垂範だった。

 就任するとすぐに、役員だけでなく、一般社員が持っていた伝票や領収書の類をことごとく社長室に運び込ませた。伝票の山をバックに社員の一人一人を順番に呼び入れた。脛(すね)にキズもつ社員は多い。社内はパニック状態になった。

 これだけのことで、効果はてきめんだった。翌月から経費は、半分から三分の一に減った〉(前掲『決断力』)

 社長が自ら伝票をチェックしたという伝説が生まれたが、土光は後日、「伝票や領収書をただ集めただけのこと。目を通していない」と打ち明けた。土光が得意とする相手の機先を制する威嚇戦術の典型であった。

 土光流合理化で「日本一のケチ会社」といわれた石川島は、折りからの朝鮮戦争特需で業績がV字回復した。

ミスター・ダンピング

 だが、思わぬ落とし穴が待っていた。朝鮮戦争が終わり、造船不況がやってきた。政府の利子補給を巡って、巨額のリベートが政界に還流した造船疑獄で土光も逮捕、拘留された。最終的には不起訴処分になった。担当検事は質素な家から電車で通勤する土光を見て「この人は違うなと直感した」と述懐した。

 土光の石川島の再建を請負う「プロ経営者」としての最大の仕事は、1960(昭和35)年7月の播磨造船との電撃的合併だった。新社名は石川島播磨重工業。略称はIHI。2007年7月に略称だったIHIを正式な社名にした。合併会社の社長に土光は就いた。

 1962(昭和37)年から3年間、進水量で相生第一工場が世界一になった。真藤恒(のち社長、その後、NTT社長になるが、スキャンダルで失脚した)という天才エンジニアを起用して、ズングリムツクリとした低コストの経済船を開発し、受注競争に勝ち抜いた結果である。おかげで土光は「ミスター・ダンピング」と呼ばれた。

 東京オリンピックの年の1964(昭和39)年、「思い残すことなし」と語り、社長の椅子を田口連三に譲った。

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