土光敏夫が東芝再建で見せた“根性と執念” 「役員は10倍働け。私はそれ以上働く」
49歳で社長に就任
東京高等工業学校ではタービンの基礎を勉強した。石川島に入社後もタービン一筋に歩む。タービンの国産化を目指し、1922(大正11)年、スイスのエッシャーウイス社という当時の最先端企業に研究留学するチャンスを得た。
帰国後、国産化した発電機用タービンを秩父セメントに売り込んだ。「国産だからダメ」と言われて憤慨し、一技術主任でありながら「万一、欠陥が判明したら引き取る」という相手側の条件を即座に了承した。若造の土光の、いわば越権行為に対して、社内は非難轟々だったが、会社幹部は留学帰りの土光に賭けた。
土光は食前食後にタービン漬けの日々を送った。ひどい近視のため軍隊への入隊を免除され、帰宅する途中でも軍服姿のまま会社に寄って残業した。本家モーレツ・サラリーマンの誕生である。
土光の奮闘が実り、受注が急増した。1936(昭和11)年、芝浦製作所(現・東芝)と共同出資の石川島芝浦タービン(現・IHIアグリテック)が設立されると技術部長として出向した。
そして太平洋戦争。敗戦。パージでトップがいなくなり、1946(昭和21)年2月、社長に就任した。土光49歳。
あだ名は「土光タービン」
公職追放により、取締役にもなっていない30代、40代の若い社長が輩出していた時代だから、土光は決して若過ぎる社長ではなかった。
新米社長は資金繰りに奔走する日々を送った。
〈第一銀行(現みずほフィナンシャルグループ、みずほ銀行)本店に乗り込んで、営業部次長の長谷川重三郎(のち頭取)に「今日は、どうしても融資してもらわねば困る。弁当を用意してきたから夜明けまでがんばりますよ」と駅弁をどさっと広げてみせ、とうとう融資を取り付けることに成功したという武勇伝が残っている。
通産省でも補助金を引き出すために同じ手を使い、「また、悪僧がきた」と煙たがられた。すでに頭がはげ上がり、比叡山の僧兵か海賊の末裔かと見まがうばかりの形相で陳情したからだ〉(『20世紀日本の経済人II』日経ビジネス人文庫)。
そのモーレツな働きぶりから「土光タービン」とあだ名された。
子会社で奮闘する土光に思わぬ運命の女神が訪れた。石川島重工業と名前が変わった親会社が、戦時標準船の改装工事で損失を出し無配に転落したのだ。土光の意向を尊重する余裕などない。「しょっぴかれるように」(本人の弁)石川島重工業の社長の座に据えられた。再建会社の社長人生の始まりである。
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