土光敏夫が東芝再建で見せた“根性と執念” 「役員は10倍働け。私はそれ以上働く」

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メザシの土光さん

「メザシの土光さん」が一躍、有名になったのは、1982(昭和57)年の夏に放映された『NHK特集 85歳の執念 行革の顔 土光敏夫』と銘打ったテレビ番組だった。

 行政改革を推進するための宣伝として企画されたものだが、土光の私生活の見事なまでの「つましさ」に番組を見た人々は驚いた。

 横浜市鶴見区の古びた小さな家に住んで、散髪は自宅で息子が行う。つぎはぎだらけの帽子。戦前から使用しているクシ。使い古された歯磨き用コップ。古いネクタイが農作業用のズボンのベルト代わりになっていた。そして、妻と二人きりでメザシと麦飯の夕食。この映像が「メザシの土光さん」のイメージを強烈に定着させた。

 5000万円近い年収のうち、1カ月の生活費に使われるのは10万円程度でしかない。収入のほとんどは、母親が創立した橘女学校(現・橘学苑中学・高校)という女子のための私立の教育機関のためになげうたれた。財界総理といわれた経団連会長まで務めた土光のあまりに清貧な生き方は、国民に感動を与えた。

社員は3倍、重役は10倍働け

 敏夫の長男、土光陽一郎(元・石川島汎用機械[現・IHI]社長)によると、「子どものころからメザシをたくさん食べていたが、父の好物は、郷里岡山の名産、ママカリの鮨やタイの浜焼き」だったという(『文藝春秋』2015年4月号の対談「日本には親父のような財界総理が必要だ」)

「私生活は質素で無駄を省くべし。企業もまたしかり」が土光の持論であった。企業家としての土光は「怒号」とあだなされるほど強面(こわもて)の人だった。その地声は大きく、興奮すると机を叩くくせがあり、比叡山の荒法師を思わせる風貌は迫力満点だった。土光に怒鳴られた役員は、みな縮みあがった。

「どうしても東芝の社長を引き受けて欲しい」

 土光が生涯の師と仰ぐ経団連会長で東京芝浦電気(現・東芝)会長の石坂泰三から、東芝の再建を頼まれたのは1965(昭和40)年5月のことだった。石川島播磨重工業(現・IHI)の再建社長として、がむしゃらに働いてきた土光だが、いかに石坂の頼みといえども即答はできない。東芝は石播の3倍も企業規模が大きかったからだ。土光は回答まで1週間の猶予をもらった。

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