「次の電車に飛び込もうって……」 シンクロ・田中京が語る現役時代のメンタルの危機(小林信也)
シンクロナイズドスイミングが五輪種目になったのは1984年ロサンゼルス五輪。次のソウル五輪で注目を浴びたのが小谷実可子と田中京(みやこ)(現・田中ウルヴェ京)だった。ふたりはシンクロを始めた当初から東京シンクロクラブ(現・東京アーティスティックスイミングクラブ)で一緒だった。同学年だが田中が早生まれのため、年齢別ジュニア全国大会ではそれぞれ日本一に輝いていた。
「6歳で水泳を始めて、8歳で全国大会予選の100メートル平泳ぎに出ました。本格的に競泳を勧められた時、自分で選んだのがシンクロでした。宝塚歌劇団のベルばらが好きで、私は歌えないけど、泳いで踊れる、宝塚と競泳をミックスしたシンクロをやりたいと思ったのです」
まだテレビでシンクロが中継される遥か前の時代、水中で踊る自分の姿が、田中のイメージの世界でははっきりと描かれていた。
「12歳のジュニアオリンピック、私はソロ、デュエット、チームそれに足技を競うフィギュア、4種目全部で優勝しました。いちばん好きなのはソロでした。私はそのころから自分で曲を探し、ラジカセで音楽を編集し、振り付けも自分で作っていました。演技を作るプロセスが好きでした」
ソロこそがシンクロだと思い熱中していた少女が、いつしか、「小谷の引き立て役」としてデュエットに活路を見出す立場になる。
しかも神様はいたずらだ。
ソウル五輪を2年後に控えた86年の全日本、ソロの優勝は田中の方だった。
「小谷さんが初優勝するだろうと言われていた年、私が初優勝したのです」
しかし、以後は小谷が優勝を重ね、88年5月の代表選考会でも小谷が勝って田中の望みは断たれた。田中の五輪出場はデュエットに限られた。「ソロの自己表現こそがシンクロだ」と感じていた少女が脇役になる。
父母から“やめて”
「87年にソロで2位になってからは本当に自分との闘いだったかなあ。自分という人間の扱い方をすごく考えなければいけなかったのが最後の2年間でした」
徹底して、主役・小谷実可子と調和し、小谷の魅力を引き立てる演技が求められる。脇役に徹する日々は容易ではなかった。
「大学4年の時(ソウル五輪の年)、最も大事なことは何かとすごく考えました。“メダリストにならないと終われない”という感覚がありました。それが目的なら、どの種目でメダリストになるのも一緒だな。ソロで叶わないなら、デュエットを本気でやるしかない。日記を読み返すと、“メダルを獲らなければ次に進めないんだ”と繰り返し書いているんです。今まで犠牲にしてきた自分を全部マルにしなければいけない……」
田中は小中高と聖心女子学院で学んだ。そのまま聖心女子大哲学科への進学を望んでいた。ところが、五輪を目指すなら推薦できないと宣告され、学業かシンクロか、選択を迫られた。
「父や母から“頼むからシンクロはやめてくれ、オリンピックなんて出られるわけがないんだから”と言われました。高3の時は日本で7位でしたから。でも、“4年間だけ好きにさせてください、引退後に大学に入り直してもいいので”と言って、日大に進みました」
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