「京大霊長類研究所」への惜別の辞~学生誘拐事件と「化石をかみつぶした」天才研究者の物語(後編)
頭がよいことの意味
結局、わたしは彼と30年あまりの月日をすごしたことになるのだが、わかったことは頭が良すぎるということは、実験したり観察したりすることで研究をすすめる学問にとって、必ずしもよいこととは限らないという事実であったと思うのだ。
「こういう実験をしてみたらどうだろう?」「こういう観察をしたら、どんな結果になるだろう?」と思いついた際、私のような凡人では先が読めない。読めないから、「とりあえずやってみようか」となる。
ところが彼は、囲碁も非常に強いことから明らかなように、先が見えてしまうらしい。くわえて読書量が豊富で、知識や造詣も深い。「こんなことをしても、こういう結果におわってしまう」とまず予測が先行する。
彼とつきあっていて悟ったのは、本を読んで内容を理解することは、必ずしも大事ではないということだったのかもしれない。本を読んだならば、そこに何が書かれていないかを見つける努力をしないといけないと考えるようになっていった。
聞いてみると、こういうタイプの優秀な研究者(優秀というのも変だが)は、世の中に決して珍しくないようである。少なくとも梁山泊のような研究組織では、なにがしか輩出するのは不可避であるように思われてならない。むろん組織のアクティビティという観点からは、ゆゆしき問題である。しかし、今振り返るにいちばん辛い思いをしているのは、当人なのだろう。
化石を食する助手
その彼もやがて日頃の言行が荒れるようになっていった。そしてやがて極め付きの事件が、勃発する。
ある時、定期的にひらかれる研究会のあとの懇親の席でのことであった。彼の研究室の教授が、関東の博物館にいる著名な研究者が最近、見つけたという「サルらしき動物」の歯の化石というのを、参加者に紹介していたときのことだった。因みにサルの歯といっても、さほど大きなものではない。小型の饅頭程度であると思っていただきたい。
出席者が順に手に取るうちに、彼のところへまわってきた。すると酩酊ぎみの彼は「どんな味がするのかな」というや、間髪容れず化石を口にいれ、食べてしまったのだった。なにをするのかと首にとびかかる教授だったが、もはや手遅れだったという。
翌朝、酔いからさめた彼が同僚に化石をたべてしまったと告白したので、同僚がはやく便所に行って出せといったところ、「かみつぶしてしまった」と返答したという。梁山泊で生きることの生きづらさが、彼をしてこういう行為にはしらせたのではと思い、末尾にしるす次第である。
ところで、教授はあの化石の紛失の言い訳を借り先の研究者にどうはなしたのだろうか。助手がたべてしまったと、正直にいったのだろうか。
教授は定年後は研究所の近所に居住し、先年みまかったばかりである。何度も通勤途上で遭遇する機会にめぐまれたものの、ついに尋ねることなく終わってしまったのが心残りである。
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