能役者が観客に殺された? 「狂言」に見る室町時代のリアルーー野村萬斎(狂言師)×清水克行(明治大学教授)

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ありのままに見る

清水 「下剋上の演劇」「反権威の文芸」みたいな言われ方をされるのは、どう感じますか。

野村 僕はあんまり好きじゃないですね。そういうイデオロギーに縛られずに、人間のありのままの姿を描く、人間が根底に持っている普遍的な欲望というものを抽出し、素直に表すのが狂言だと思っていますから。

清水 そう聞いて安心しました(笑)。

野村 ただ、人間の有様をそのまま写したものが、その時の都合の良いように解釈される。それがアップデートであるともいえます。世相を映すのが逆に演劇的行為だと僕は思っていますので。ちょっと話がずれてしまうかもしれないですが。

清水 いえ、そういうお話を聞きたかったんです。

野村 ですから、今のように倫理的に厳しい時代に狂言を見ると、中世の人はあまり倫理観もなく、一人一人が己を主張しあっていたというふうに見えるわけです(笑)。とはいえ、それを「倫理に反する」とイデオロギー的に見るのではなくて、ありのままに見るべきだというのが、清水さんが今回の本の中でおっしゃっていることなのかなと拝察いたしました。

清水 まったくその通りです。中世の人々の言動は、今の基準からは凶暴で身勝手なように見えますが、当時はそれが普通だったし、その時代なりの合理性があった。現在の価値観に縛られた見方ではなく、もっとフラットに人間の姿を見てほしいという思いがありました。

 私は、それまでの「神仏中心主義」から「人間中心主義」に変わっていくのが室町時代だというイメージを持っています。例えば狂言でも、「川上」という作品には、そういうところが表れていると思うんです。目の見えない男がお地蔵さんに願をかけて目が見えるようになるんですが、その代わりに「あなたの妻は悪い妻だから別れなさい」というお告げをもらう。男はそれで妻と別れようとするのですが、結局妻とは別れられず、また失明してしまうというお話です。

野村 夫婦としては目が見えなくなってもいい、つまり仏に背くような選択をするということですね。

清水 もし宗教的な説話だったら、その男が何か悪いことをしたから失明したとか、あるいは逆に良いことをしたから目が見えるようになったという教訓的な説明が欲しいところですが、まったくそういうものがない。そもそも、お地蔵さんが何で奥さんと別れなさいと言ったのかもよく分からない。そんな意地悪なお地蔵さんよりも、むしろ目の前の奥さんの方を取るというところが、すごく人間中心主義的な気がするんですけども。

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