世良公則が語る「ワクチンパスポート」への違和感 打てない人が差別される可能性も
求む発信できるリーダー
コロナが原因の経済苦で亡くなった人は、少なくないはずですが、そういう方が感染者数のように、日々カウントされることはありません。感染者数を抑えることが、政治の目的のようになってしまった結果、感染対策を理由に経済が止められ、苦しんでいる人への配慮は後回しになってきました。このように目先のことを優先するのが、日本の政治の習い性になっているように感じます。
原因のひとつは、リーダーに発信力と覚悟が欠けていることではないでしょうか。ライブを行う際は僕もリーダー、つまり責任者です。初めて自粛を要請されたとき、多くのスタッフを抱えながらも、中止を決定しました。決断し、「またできるようになったら、力を貸してほしい」と伝えました。白黒をハッキリさせるべきときがあるのです。
今後、日本でも、新型コロナよりもはるかに毒性が強く、致死率も高い感染症がはやり、ロックダウンを決断すべきときがあるかもしれません。でも、責任をもってそう決断できる政治家が、いまの日本にいるでしょうか。
今回学んだと思いますが、そうした有事の際には、決断して、「いまだけは耐えてくれ。そのかわり補償はする」と、批判を覚悟のうえでメッセージを出せるリーダーが不可欠です。
日本は経験から学ぶのが苦手な国
ただ、日本でもロックダウンを行えるようにすべきかどうかについては、憲法に抵触するという理由から、その是非について、まだ十分に議論されていない状況です。自由や人権とはなにかということが、日本では考えられていません。戦後の日本人にとって、自由や人権という考えは、他者からもらったものだからだと思います。
戦後の日本人は、自分たちが決めたわけではないものを、懸命に守ってきました。僕たちは、日本を守るとは、自由とは、人権とはどういうことなのか、自分たちで考える時期にきているのではないでしょうか。いつまた危機に見舞われるかわからず、コロナ禍だって、最初はこんな事態になるとは思いませんでした。いざというとき決断できるように、いまから議論し、備えておくべきです。
コロナに対しては、日本の公衆衛生や生活習慣が抑止力になった可能性があります。しかし日本は、経験に学んで、次に訪れる同様の危機に備えるのが苦手な国です。台湾のコロナ対策が成功したのは、SARSの流行から学んだからです。一方、日本は災害大国なのに、災害発生時に避難する場所は、ずっと変わらず学校の体育館や公民館で、そこでは雑魚寝でプライバシーもありません。
2016年のイタリア中部地震では、空気を入れて作るテント状の避難所が数多く用意され、そのなかには仕切りがあり、プライバシーが確保されていました。ところが日本は、何度地震に遭っても学びません。結局のところ、自分たちのアイデンティティー、自由やプライバシーといったものを、自分たちで、憲法のなかで決めていないから、それが侵されても気づかないのだと思うのです。
日本のそういう弱点も、今回のコロナ禍で露呈しました。これを僕たちが学び、議論をするよい機会だと捉え、学習していければいいと、あらためて思います。
[5/5ページ]