エンジン一筋「本田宗一郎」が四輪車進出で経産官僚を「バカヤロー」と怒鳴りつけた日

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狂気と純粋

〈藤澤の経営手腕のおかげで、宗一郎はカネや販売の苦しみを味わうことなく、才能を存分に発揮し、エンジン一筋で世界を疾駆することができた。

 藤澤に出会わなかったら、「浜松の中小企業のオヤジで終わっていた」と言われるゆえんである。〉(同前)

 2代目社長の河島喜好(1973~83年)、3代目の久米是志(83~90年)は、工場で宗一郎に定規で殴打されたことがある。

 怒鳴り声が聞こえ始めると、社員はクモの子を散らすように逃げた。気に入らないことがあると鉄拳を振るう。スパナが飛ぶことも珍しくなかった。

 宗一郎がイメージしたものと違うものが出来上がると「違う!!」と言って本気で怒りだした。目にいっぱい涙をため、「いいものを作らなきゃ」と呟いたという。

「狂気と純粋さがないまぜになっていた」と往時を振り返るホンダの古いOBもいる。それでも純粋だったからこそ、皆、ついていったのだ。

「いいものを作る」という宗一郎の心が、終生、ぶれることはなかった。言っていることは分かりやすく単純明快だったから、若い社員たちは黙々と働いた。彼等は宗一郎の背中を見て育った。

鮮やかな引退

 本田宗一郎のDNAを受け継いだホンダには「人を幸せにするモノづくり」という思想が息づいている。それでも宗一郎の薫陶を受けたことがない経営陣に代替わりして、「ホンダらしさが薄れてしまった」との声が聞かれるようになったのは事実である。残念なことだ。

 戦後の起業家でスーパースターだった宗一郎が突然、引退を表明し、産業界を驚かせた。

 1960年代後半、空冷エンジンにこだわる宗一郎と、空冷エンジンの限界を見極め、水冷エンジンの開発を進めるべきだと考える若手技術者たちに距離ができた。技術陣は宗一郎の意向を汲んで空冷エンジンを搭載した小型自動車を世に出したが、売れなかった。

 これが契機となった。技術者たちは、はたと思いつく。藤澤に宗一郎を説得してもらうのが早道だ、と。

 藤澤は“盟友”にこう語りかけた。「あなたは社長としてホンダに残りますか。それとも技術者として名前を残しますか」。

 こう言われた宗一郎は自分の引き際を悟ったのだろう。

 1973(昭和48)年、宗一郎は66歳で社長を退任。副社長の藤澤武夫とともに取締役最高顧問となる。いったん退くと決めたら、鮮やかに、きっぱりと引く。

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