エンジン一筋「本田宗一郎」が四輪車進出で経産官僚を「バカヤロー」と怒鳴りつけた日
先手を打って、新車を開発
宗一郎の頭の中には、自らも携わった軍需工場の原体験があったようだ。軍の保護にすがるだけで革新もアイデアもない企業が、温室の中でぬくぬくと育てられていた時代は、宗一郎にとっては悪夢以外の何物でもなかった。
「戦争をしていた時代じゃあるまいし、わたしゃ国のためには働かないよ。自分のために全力で自動車をやりたいんだ」(『ホンダ50年史』八重洲出版)
産業政策に政府が介入すると企業の力は逆に弱まる。自由競争こそが本物の企業や製品を作る。「良品に国境なし」が宗一郎の信念だった。
「特振法ができる前に車を作ってしまおう」
宗一郎は急遽、スポーツカーや軽トラックの製作を指示した。次々と難しいテーマを与えたが、開発スタッフは若さと体力で切り抜け、短期間で完成させた。
1962(昭和37)年10月開催のモーターショーに、ホンダ初の普通乗用車となる小型スポーツカーが登場した。排気量500CCだったから「S500」と名付けた。同時に発表した軽スポーツカー「S360」とともに、カーマニアの注目を集め、黒山の人だかりができた。
精密なエンジン
「S500」はコンパクトな2人乗りオープンカー。英国のスポーツカーを参考にしたバタ臭いデザインだった。搭載されたエンジンは二輪レースで実績のあるDOHC。44馬力ながら1万回転まで可能。超高速回転を実現し、「時計のような精密さだ」と絶賛されたという。
宗一郎は先手を打って新車を開発し、自動車メーカーとしての存在を世間にアピールした。
宗一郎に四輪車を駆け込み生産させた特振法は、1963(昭和38)年の通常国会で廃案となる。もし成立していたら、自動車メーカーは競争力を失ってしまい、日本が世界屈指の自動車大国になったとは思えない。「国の補助で事業をやって成功した例(ためし)は世界中どこを探してもない」。
硬骨漢・宗一郎の、この言葉は今も生きている。
四輪車に進出すると同時に、技術の頂上を目指す作戦として、自動車レースの最高峰F1(フォーミュラ・ワン)レースへの参加を宣言した。F1に参戦することによって、世界に「ホンダは四輪メーカーにふさわしい会社だ」と認知させる作戦を敢行した。参戦2年目の1965(昭和40)年、いきなり初優勝した。
宗一郎の強烈な個性のもと、ホンダは高い技術力と新しい発想を武器に異色の自動車メーカーに変身していった。
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