エンジン一筋「本田宗一郎」が四輪車進出で経産官僚を「バカヤロー」と怒鳴りつけた日

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佐橋滋と大ゲンカ

 1966(昭和41)年、宗一郎と佐橋が直接顔を合わせる機会が設けられた。重工業局長を退官後、富士通の副社長に転じた通産官僚の赤澤璋一が、関係修復を図るために宗一郎を事務次官になっていた佐橋に引き合わせたのである。その場で両者は大立回りを演じた。

 そのときの両者のやりとりを、塩田潮は『昭和をつくった明治人(下)』(文藝春秋)でこう活写する。

〈(本田の長口舌を)黙って聞いていた佐橋が口を開く。やんわり反論を始めた。「あなたは一企業の立場だが、私どもはいつも天下国家の立場に立ってものを言っているんです」

 一企業と言われて、本田はむっとなった。一発かましてやろうと思い、高飛車に出た。「私に本格的な四輪車をやらせたら、あっという間に世界一流の会社にしてみせます。トヨタや日産を追い抜くなんて、わけはありませんよ」(中略)

「生意気なことを言いますな。そんなにおっしゃるなら、トヨタでも日産でも社長にしてあげますから、ご自分でやってみたらどうですか」

「トヨタや日産の社長になるのはいいけれど、初めから全面的に引き受けて、好きにやらせてもらわなければ……」。相手が監督官庁のトップだからといって、本田は負けていない〉

作るなとは何事だ

 塩田は、かなり穏便な言葉使いにしているが、実際のやり取りはもっと過激だったようだ。

「なんだと! 俺が私利私欲で会社をやっているとでも思っているのか! 俺たちが、オートバイで世界一になったとき、お前らはなんて言った。日本のために日の丸を掲げてくれて感謝しています、なんて言いやがったじゃないか。いいか、俺がもし自動車で日の丸を掲げたときには、お前は切腹するぐらいの覚悟をしておけ」

 宗一郎は、こう言い放つと立ち上がり、会談はあっという間に決裂したと伝わる。

 当時、ホンダは四輪車を製造していなかったが、二輪車では「世界のホンダ」として頂点を極めていた。乗用車部門への進出は宗一郎の夢だっただけに、通産省の再編案への怒りはすさまじかった。

 宗一郎は、このときほど腹が立ったことはなかったという。「作るなとは何事だ。我々は自由なのだ」。宗一郎は、こう叫んだ。合併・統合の話にも「大きいものが永久に大きいという保証はないんだ」と強く抵抗した。

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