エンジン一筋「本田宗一郎」が四輪車進出で経産官僚を「バカヤロー」と怒鳴りつけた日
「マン島」レースを完全制覇
大きなアドバルーンを上げ、その目標に向かって全力で疾走するのが宗一郎流だ。
1954(昭和29)年、二輪車のオリンピックといわれた「英マン島TTレース」への出場を、堂々と宣言した。
このときは、自動車業界、殊に二輪車のプロたちの物笑いのタネとなったが、1961(昭和36)年、マン島レースを完全制覇するという快挙を成し遂げ、宗一郎は世間を見返した。
「世界のホンダ」の名声が定着すると、すかさず、永年、温めてきた四輪車進出構想をぶちあげた。しかし、宗一郎の前に、通産省(現・経済産業省)という大きな壁が立ちはだかったのである。通産省を相手にした大立ち回りこそが、宗一郎の起業家人生のハイライトである。
「バカヤロー! おまえたち官僚が日本を弱くしてしまうのだ!」
本田宗一郎が通産省で啖呵を切ったのは1961(昭和36)年のことだ。
事の次第はこうだ。米国から貿易の自由化を求められた日本政府は、国際競争力のない産業を行政指導で強くしておこうと考え、特定産業振興臨時措置法(特振法)の構想を発表した。自動車メーカーを3グループに集約し、各グループは生産車の重点をどれか1つに絞り込み、ほかの分野からは撤退させるというものだった。
『官僚たちの夏』
▽量産車グループ:トヨタ、日産、東洋工業(現・マツダ)
▽特殊車グループ:プリンス(日産と合併して消滅)、いすゞ、日野
▽小型車グループ:新三菱重工(現:三菱自動車)、富士重工、ダイハツ、東洋工業
乗用車への新規参入を禁止するという厳しい縛りがかけられていた。四輪車メーカーの乱立を防ぎ、国内の過当競争を止めさせなければ、米国製の車に太刀打ちできないと考えたのである。
特振法が通れば、ホンダが四輪車に進出する機会は永遠に失われてしまう。宗一郎はこの構想に猛反発した。「バカヤロー!」のセリフは、通産省に直談判に行き、冷たくあしらった官僚を怒鳴りつけたときに出た。
特振法の旗振り役は、異色の通産官僚として勇名を馳せた佐橋滋である。
城山三郎の小説『官僚たちの夏』(新潮文庫)の主人公、風越信吾のモデルである。
結局、1963(昭和38)年に特振法は廃案になったが、佐橋は「国際競争力を高めるためにはメーカーの数を絞り込まなければならない」という持論を捨ててはいなかった。
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