「小室圭さん」「ザ・マミィ」「恋です!」 「見た目で人を判断」はいけないことか

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 10月18日朝、多くの報道陣が待ち構える中、小室圭さんは婚約者・眞子さまとそのご両親、秋篠宮殿下ご夫妻にお目にかかるために自宅を出た。報道陣に向かって軽く一礼をしたその頭から、注目を集めていたロングヘアーは消えていた。

 本来、髪の長さもスタイルも個人の自由であるのは間違いない。が、小室圭さんの場合は、国民的関心事の中心人物ということもあり、アメリカでの直撃取材、さらに帰国時に姿がテレビで放送される度に、「アリ」「ナシ」といった議論が起きることになってしまっていた。

 このように他人の「見た目」を云々すること自体は、近年、かなりデリケートな問題になっている。外見に基づく差別を「ルッキズム」と呼び、欧米では厳しく批判される、といったこともよく知られるようになってきた。ルッキズムは「外見至上主義」と訳されることもある。

「人を見た目で差別してはいけない」

 これはまったくの正論であって、表立って反論する人はいないだろう。が、小室さんの例を見てもわかるように、「差別」はせずとも、何らかの評価を下す行為をそう簡単に人は止められないものなのも事実である。

「キング・オブ・コント2021」で空気階段と優勝を争ったザ・マミィのコントではこんな場面が登場する。

 街で大声をあげて通行人に絡んでいる「見るからにヤバそうな」おじさん。誰もが避けていく存在のおじさんに、一人の青年が道を聞く。最新のクラブまでの行先を教えてくれませんか、と無邪気に問うのだ。

「少しは見た目でヒトを判断しろ。多少の偏見を持て」

 戸惑いながらおじさんは叫ぶ。

 その後も財布や荷物を平気で預けてくる青年に、おじさんは「偏見を持て」と何度も言う。「見た目で人を判断するな」という「良識」の偽善を突いたコントだといえるかもしれない(そんな深刻なものではないが)。

 10月に放送が始まったドラマ「恋です! ヤンキー君と白杖ガール」(日本テレビ系)でも「見た目」に関するシーンが登場した。ヒロインは街で有名なヤンキーに心を惹かれていく。しかしヒロインの姉はそれが心配で仕方がない。姉はこんなふうに言う。

「人は見た目が9割って言うでしょ」

 見た目に人柄は表れる、いかにもヤンキーで顔に大きな傷があるあんな男は、妹にふさわしくない、と言うのだ。

 ザ・マミィのコントも「恋です!」も、いわゆる「政治的正しさ」に基づくような言説――「人を見た目で判断してはいけません」――と、普通の人の感覚にはギャップがあることを示している、といえるだろう。

「たしかに人を見た目で差別してはいけない。でも、そうはいっても人を評価する際に、見た目を除外するなんて無理なのでは……」

 こういう本音である。顔に傷のヤンキーに恋することはまだしも、ザ・マミィ的なおじさんに、荷物や財布を預けないほうがいいというのは、多くの人にとっての常識だろう。

「人を見た目で判断してはならない」という倫理観と、人々の本音、あるいは直感のようなものとの関係をどう考えればいいのか。

 ドラマのセリフにも登場したベストセラー『人は見た目が9割』の著者、竹内一郎さんはこう語る。

「アメリカの心理学者、ジョン・マナーの実験で、こういうものがありました。人が他人の顔写真を見て『魅力的な異性』『魅力的な同性』『平均的な異性』『平均的な同性』という判断をするのに要する時間は、ほぼ0.5秒だ、というのです。ここから『第一印象は0.5秒』というフレーズが広まったりもしました。

 実際にはそこまで単純ではないでしょうが、私たちは直感的に相手を信用できるか、とか優しそうか、とか判断しています。子供の頃から、見た目で判断するな、と教えられていても、です。

 なぜそうなるかといえば、『人を見た目で判断してはならない』というのは市民社会のルールだからです。もちろん、そのルールを私たちは守らなければなりません。

 しかし一方で、市民社会そのものの歴史は人類の歴史と比べれば、極端に短い。人類は長い間、“野生動物”として生きてきました。

 野生動物は、遠くから近づいてきた動物が危険かどうか、一瞬で見極めなくては生き残れません。ヒトも、目の前に現れた人間が、敵か味方かを一瞬で見抜かなければ、自分の生命も危ういし、家族も守れない、という時代が長かったのです。

 もちろん、見た目で人を差別することは許されません。

 しかし、視覚、聴覚、嗅覚などをもとに、瞬時に判断するような能力は動物としては必要なのです。そのことと、その判断を口外するか、安易に自身の行動に反映させるかはまた別の問題です」

人は自分の“残念”には気づかない

 演出家でもある竹内さんは、誰もが瞬時に何らかの判断を下している、ということを前提にして、人は自らの「演出」を意識したほうがいい、とアドバイスする。

「私の言う『見た目』とは、単なる外見だけではなく、表情、しぐさ、声色、匂い等々、要するに『言葉以外の情報』の総称です。自分の『見た目』が他人にどう受け止められているかについて、無頓着な人は意外に多くいます。

 職場で、本人が思っているほど周囲の評価が高くない人がいないでしょうか。頭もよくて、弁も立ち、仕事もできるのに人望がない、というような人です。

 そういう他人を見て、『あの喋り方や関節を鳴らす癖、人を見下す態度が変われば随分評価も変わるのに』などと周囲は思っています。そういう『見た目』要素はたくさんあります。

 目つきということもあれば、ヒゲということもあるかもしれません。貧乏ゆすりが悪印象につながっていることもあるでしょう。

 そういう人は『残念な人』扱いされます。

 多くの人は、他人の『残念』はすぐわかるのですが、自分の『残念』には気づきません。実はほんのちょっとしたことで、誤解を招いたり、人を遠ざけたりしている、というのも珍しくないのです。自分を客観的に見て、ちょっとだけ『演出』すれば、誤解や人間関係のストレスは大幅に減らせるのですが……」

 小室さんの場合、「アメリカの自由な空気を味わってきた」や「他人の目は気にしないことにした」といったメッセージを「見た目」で伝えることには成功したのかもしれない。どこまでご本人が意識的かは別として、彼の「意思の強さ」のようなものを受け止めた人もいるようだ。ただ、結果的に多くの支持を得る演出ではなかったのかもしれない。

 再会の日、髪を切ったのは、小室さんなりの演出だったのだろうか。

デイリー新潮編集部

2021年10月19日掲載

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