毒蝮三太夫×生島ヒロシ対談 毒舌が許された理由、85歳で現役の健康法とは
立川談志には感謝
生島 マムシさんの毒舌も含め、我が道をゆく“オンリーワン”の番組です。
毒蝮 放送中、目の前にババアやジジイがいて、「きったねぇな」「この、くたばりぞこない」「賞味期限が切れてるな」と言って何が悪いんだよ(笑)。生放送で「きったねぇ店だな、潰れそうだな」って言ったら、本当に潰れたって笑えない話もあったけどさ。中には「ババア」って言ったら怒って帰っちゃった人も随分いた。オンエア中、騒ぐ子供に「うるせぇな、このガキ」とか言って泣かしたこともある(笑)。「泣くなら向こうへ行け」って怒ったら、スタジオにいた人たちはびっくりしたらしい。放送中にババアがたくさん集まっていたのを見て、「ここは化け物屋敷みたいだな」って言ったら、TBSに抗議が殺到したこともあった。でも、これは「毒蝮三太夫」という名前だったから言えたのかもしれないね。「木村拓哉」という名前じゃ無理だろ(笑)。だから、名付け親の立川談志には感謝だね。
生島 談志師匠とは親友でしたもんね。
毒蝮 俺の本名は石井伊吉(いよし)だけど、談志から「お前は毒蝮と名乗れ」と言われてさ。あの頃、「ウルトラマン」でアラシ隊員、笑点では座布団運びもやった。俺も気持ちは役者だから、いろんな役をやりたくてね。寅さんの映画なんかにも出たけど、それを談志は見ていて「お前らしさが生かされてない」って。怪獣映画に出ても、ああいう役柄は続けられるものじゃない。「お前は自分で喋ったほうがいい」って。それで寄席に出ろ、一人芸をやれと叱咤されて、毒蝮という名前がついたのよ。
生島 その名前を聞いた時はどう思いました?
毒蝮 そりゃ、最初は嫌だったよ。でも、この名前で最初にレギュラーをくれたのがTBSラジオ。それが今も続く「ミュージックプレゼント」だった。近石真介さんや悠里ちゃんとか名伯楽が俺の受け手をしてくれて、最初の2年ぐらいは大人しくレポーターをやったけど、喋っても面白くねえと思っていた。下町の同級生からも、自分の言葉で話してないって言われてね。
生島 よそよそしかった。
毒蝮 ちゃんと喋れる上手な奴なんてごまんといる。このままじゃジリ貧だと思ってさ。最後は言いたいこと話して辞めちまおう。そう思って口にしたのが、「うるせえ、このババア」だったのよ。TBSに抗議の電話が沢山入ったらしいけど、その中に、毒蝮の言いたい放題が痛快で面白かったという感想が、何百本のうちに1本あったらしいんだな。でも、ヒロシも生放送やっているから危ないだろ。今はなにかと言葉尻を取られる時代になったから。
生島 コンプライアンスが厳しい時代になりましたからね。今は苦情の電話が1本来ただけでも、謝罪すべきかどうか議論になる。
毒蝮 そうだよな。
生島 抗議電話の嵐でも、1本だけ“面白かった”という意見がくれば起用してみよう。そういう目利きのある作り手がいたから、マムシさんも続けてこられた。
毒蝮 ディレクターやプロデューサーのおかげもあるけど、やっぱりスポンサーですよ。当時の東食、イトーヨーカドーやヨークマート、マルエツのおかげです。助けていただいたよ。放送日を事前に告知してスーパーに人を集めてもらったのに、お客さんに向かって罵詈雑言を浴びせた。よく刺されないで済んだよ(笑)。
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