大谷翔平の幼なじみ、恩師が明かす原点 異常なほどの負けず嫌い…ピッチングはいまひとつだった?

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怪我防止を最優先にした恩師

 これもまた、今に至る「野球少年」の原型である。

「初めて見た時から、プロに行くんだろうな、と思いましたね」

 と、言葉を継ぐのは、リトルの後、大谷が入団した「一関リトルシニア」の千葉博美監督(当時)である。

「その頃からバッティングは教材にしてもいいくらい綺麗なフォームでしたし、投手としては、キャッチャー泣かせ。変化球の曲がりがすごいので、捕手は目が追い付かず、泣きながら練習していた。私も一度、翔平が投げている時にバッターボックスに立ったことがあるのですが、速いし、変化球の角度も予想がつかないので、際どいところに球が来ると避けられないんです。当たりそうになるものだから、二度と立たないと決めましたよ」

 そんな千葉監督が細心の注意を払ったのは、大谷の身体のことだったという。

「当時の翔平は、とにかく背が高くて細かった。だから、下半身の安定感がなかった。でも、無理な身体作りをさせたくなかったので、筋量中心のトレーニングはさせませんでした。行ったのは腕立て伏せや階段上り、走り込みといった基本的なものだけです。だから中学生の間は、怪我なく過ごせた。投げると血豆ができる癖があったくらいでしたね」

 ゲームでも1試合100球と球数制限を敷いた。相手チームの監督からは「何であいつを続けて投げさせないんだ」と驚きの声が上がったが、それでも怪我防止を優先させたという。

 千葉監督の受けた大谷の印象は、これまでの証言者と同じく、「負けず嫌い」だ。

「とにかく何でも真剣にこなすんですよね。一度、ショートを守っていた時に、相手チームから、ランナーへのタッチが強すぎるとクレームが入ったことがある。わざとではなく、“絶対アウトにするぞ”と思っているから自然と力がこもるんでしょうけどね。本人を連れて謝りに行きましたが、その時はさすがに面白くなさそうな、不貞腐れた表情をしていました」

 他方で、どこか抜けている面もあったそうだ。

「キャプテンだった時の合宿で、ミーティングの時間を勘違いしてお風呂に入っていた。試合にスパイクを忘れてお母さんが慌てて買いに走ったことも」

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