大谷翔平の幼なじみ、恩師が明かす原点 異常なほどの負けず嫌い…ピッチングはいまひとつだった?

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顔がアザだらけ

 続いて、

「翔平が初めてチームに来た時は、しっかりした子だなあ、と思いましたね」

 と言うのは、その「水沢リトル」で総監督を務めていた、浅利昭治さんである。

「小学校2年生でお母さんに連れられてきたんです。翔平の校区には軟式のチームもあったので、“友達もいるし、そっちに入らないのか”と聞いたら、私の目をまっすぐ見て“友達がいなくても硬式の野球をやりたいです”って。いい根性してるなと思いました」

 前出・佐々木さんの証言通り、大谷は入団してすぐ頭角を現したという。

「身体能力が抜群でしたからね。小学校3年生の時には県大会の準決勝で、最終回で1点負けている時に、ランナーを一塁に置いて、翔平がサヨナラホームランを打ったんです」

 飛距離は65メートル。それが大谷にとっての人生初ホームランだった。

「中学生だって本塁打は年に1~2本ですからね。小3でフェンスオーバーはすごいですよ。みんなで大騒ぎして“やったあ”となったんですが……」

 その喜びは一気に吹き飛ぶ。球審が「バッターアウト」を宣告したのだという。

「右足がバッターボックスから出ていた、と。確かにそうかもしれませんが、みんな大はしゃぎしているのに、小学生の試合でそこまでやる必要はないだろう、と。抗議して、地元リーグ脱退の寸前まで揉めました」

 世界のスラッガーの人生初ホームランは、幻に消えていたというわけである。

「翔平は“飛び級”で、だいたい2年上の先輩と一緒にプレーしていましたね」

 と、浅利さんが続ける。

「で、先輩に守備位置などを指示していてね。リトルの最終学年・中1の時で言えば、東北大会で1試合17三振を奪っていますし、また、彼がバッターボックスに立つと、相手のチームが“内野も外野も下がれ”と指示を出すんです。打球が速いから当たると危ない。私もピッチャー方向に打つな、と言っていました」

 飛距離がすごいゆえに、「引っ張り禁止」の指示を出したというのも先に述べたが、ピッチャーとしても規格外だったという。

「6年生になると、キャッチャーが彼の球を捕れない。ストレートはびっくりするような速さですし、スライダーはすごい角度で曲がるので、マスクを着けているのに顔がアザだらけになってしまいました。地元の社会人チームの捕手が試しに受けてみたら、球が捕れなくて身体にドーンと当ててしまい、悶絶したこともありましたね」

 浅利さんは、大谷の野球への向き合い方を実感した場面を今でも覚えている。

「合宿で夜のミーティングの時に“ゲーム持ってる奴は手を挙げろ”と聞いてみたんです。大体みんな手が挙がるんですが、翔平だけ挙げない。“持っていないのか”と聞くと“はい。野球の方が好きですから”と。この子は上手くなるな、と思いましたね」

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