大谷翔平の幼なじみ、恩師が明かす原点 異常なほどの負けず嫌い…ピッチングはいまひとつだった?

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「負けると必ず“もっかい!”」

 メジャーという世界一ハードな舞台で、一年間全米を熱狂させた大谷。その驚異の「心技体」はいかにして育まれたのか。

 現在、27歳の大谷が18歳まで、つまり人生の3分の2を過ごした岩手県に、“原点”があるのは間違いあるまい。それを知る4人に話を聞いてみた。

 まずは、

「翔平と過ごした日々は今でも僕の大きな財産となっています」

 と語るのは、社会人野球「室蘭シャークス」捕手の佐々木大樹さん。佐々木さんは、水沢の出身で、小、中、高校と同じチームに所属していた先輩である。

「出会いは翔平が3歳、僕が5歳の時。母親同士がバドミントンチームの仲間で、練習の度、子どもたちで遊んでいたんです。鬼ごっこ、かくれんぼ、サッカー、ドッジボールと何でもしましたね」

 この頃の大谷は、わんぱく少年。とにかく負けず嫌い――というのが、佐々木さんの印象だ。

「みんなで遊んでいても、負けると必ず“もっかい!”と言って勝つまで勝負をしたがるんです。ある時、みんなで缶蹴りをしていたら、翔平が年上の友達と揉めて、取っ組み合いの喧嘩になったことがありました。みんなで止めたんですが、どうも、(鬼が)缶にタッチしたとか、していないとかが原因だったようでした。今となっては笑い話ですが、当時は悔しさを抑えきれなかったんですね」

 小学生になった佐々木さんは、地元チーム「水沢リトル」で野球を始める。そこに後から入ってきたのが、大谷だった。

「入った頃からすごかったですよ。特にバッティングが圧倒的だった。水沢リトルは胆沢川の河川敷で練習していたんですが、翔平が特大ホームランを連発して、ライト方向にある川に打球がみんな飛び込んでしまう。硬球って高いですから、総監督がまずいと思って“引っ張り禁止”の命令を出していました」

 対して、ピッチングの方は、

「球は速いのですが、コントロールは今一つ。だから試合でストライクはあまり入らなかったんですが、翔平のすごいところはフォアボールを気にしないところ。入れにいかなきゃと萎縮せず、全力投球していました。当時は“おいおい”と思って見ていましたけど」

 負けず嫌いと、動じない心。今に至る原点でもある。

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