京大出身で三段跳び金メダル「田島直人」 独特すぎた“文武両道”の練習方法とは?(小林信也)

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 日本の「お家芸」といえば柔道、体操などが浮かぶが、オリンピックで最初に金メダルを連取した種目は陸上男子三段跳びだった。1928年アムステルダム大会で織田幹雄が日本人初の金メダルに輝いた後、32年のロサンゼルス大会では南部忠平が金メダル。そして「日本3連覇」を見事に果たしたのが36年ベルリン大会の田島直人だった。2位も原田正夫。陸上で金銀獲得という、今では夢のような快挙。しかも、二人はともに京都大学の出身。当時日本の「文武両道」の気概が偲ばれる。

 田島は高校を卒業した年(浪人中)ロサンゼルス大会に出場し、走り幅跳びで6位に入賞した。

 田島直人の伝説をまとめた労作『栄光の樹』(小山(おやま)尚元著)には、実業団チームで田島の後輩だった柏倉敬司が田島から直接聞いた話が紹介されている。

「ロサンゼルスのときには補欠で連れていかれたけれども、正選手が負傷したときに走り幅跳びに出て偶然とも思えるような記録で6等になった。これなら自分はベルリンのオリンピックで優勝できるだろうというふうにそのとき思った」

 そして、「以後4年間、オリンピックで優勝すること以外考えなかった」

 寝ても覚めても金メダルを獲ることに田島は没頭した。だが、その努力の仕方は独特だった。単純な猛練習ではなかった。

勝つために独語習得

 ロサンゼルスで「4年後の金メダル」を固く誓った後、田島は他の競技の優勝者たちの行動を食い入るように見つめ、勝つための方策を自分なりに見極めた。そして、ひとつの結論にたどり着いた。その結論とは、およそ一般のスポーツ選手が考えないことだった。

「グラウンドでやる練習はだれだって似たようなものだ。グラウンドの外でどう過ごすかが成績を左右する。結論はただひとつ。とにかくドイツ語を4年間でマスターして、ドイツ人と同じくらいドイツ語で見聞きできればいい。そうすれば、おれは絶対に負けない」

 五輪会場では、英語、フランス語、開催国の言葉でしかアナウンスがない。ロスでは、英語のアナウンスが聞き取れず、緊張して伸びやかなジャンプができなかった。その反省があった。レース直前の控室で、言葉が通じない外国選手の中にぽつりと入ったら孤立感で締め付けられるだろう。言葉が理解できたら、平常心が保てるはずだと田島は考えたのだ。後輩の柏倉が自宅を訪ねると、田島は風呂に薪をくべながらドイツ語新聞を読んでいたという。

 4年後ベルリンで、田島はまず走り幅跳びで銅メダルを獲得。2日後、原田、大島鎌吉いずれも優勝が狙える同僚かつライバルの二人と共に三段跳びに出場した。自己記録は田島が3番手だったが、本番の5回目、田島は16メートルちょうど。当時の世界新記録をマークしてトップに立ち、そのまま優勝をものにした。

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