ノーベル平和賞ムラトフ氏が「言論の自由」を諦めようとした日
ロシア人の名前は覚えにくい。だから、フィリピンの女性ジャーナリストとともに、ロシア人のジャーナリスト、ドミトリー・ムラトフ氏が今年のノーベル平和賞を受賞したとのテレビ報道を聞いた時、すぐにはだれのことかわからなかった。
しかし、精悍だが、にこりともしない彼の風貌が映し出されるや、私は思わず声を上げた。いまや、ロシアでほぼ絶滅危惧種となった独立系新聞「ノーバヤ・ガゼータ」(新しい新聞)の編集長・ムラトフ氏ではないか。
別のテレビニュースは、モスクワ中心部にある「ノーバヤ・ガゼータ」の社屋の前で、押し寄せたマスコミにもみくちゃになりながらインタビューに答えるムラトフ氏の姿を映し出していた。彼はやはりにこりともせず、「この賞は、新聞社と亡くなった6名が受賞したのだと思っている」と話していた。
同社の社屋は、19世紀の貴族の館を改装したもので、新聞社というよりこぢんまりした出版社という佇まいである。小さな新聞なのだ。彼の後ろにちっぽけな木のドアが見え、思わず、「ああ、あそこのドアから何度もこの社屋に入ったなあ」という感慨が湧いた。
もう、10年以上前である。私は、後に『暗殺国家ロシア 消されたジャーナリストを追う』(新潮社刊)として発表するルポルタージュの取材のために、モスクワのこの「ノーバヤ・ガゼータ」の社屋に通い続けた。長期滞在や短期での行ったり来たりを繰り返しながら、編集長のムラトフ氏始め、命知らずの記者たちに何度も取材を続けていた。
「命知らず」……、これは決して大げさではなく、同社の記者たちを形容するのにふさわしい言葉である。
同紙の創刊は1993年。ムラトフ氏が編集長を務めるようになったのは95年からである。それから実に四半世紀、経営危機による休刊や政権からの有形無形の圧力に耐えながら、常に編集長として社員を束ねてきた。
掲載される記事のクオリティは非常に高く、特に調査報道にその真価を発揮した。2000年にプーチン大統領が誕生以後、政権からの締め付けが徐々に強まる中、できる限りタブーを廃し、権力者が最も嫌がる不正蓄財、汚職など金の流れにも迫ろうとした。
そのためだろう、この小さな新聞は、百数十人ほどの社員規模に見合わない殉職者を次々に出した。2人の記者が殺害され、同じく記者1人が不審死を遂げ、契約記者2人、さらに顧問弁護士まで殺されてしまったのである。一つの新聞社におけるこれだけの犠牲は、世界的に見ても例がないだろう。
ノーベル平和賞受賞の報に接して、ムラトフ氏がまず6名の仲間たちの名前を挙げたのは、当然のことだったのである。
射殺されたポリトコフスカヤが涙を流して訴えたこと
6名の中でもっとも有名な犠牲者は、なんといってもアンナ・ポリトコフスカヤだろう。ロシア南部のチェチェン共和国で勃発したチェチェン戦争に参戦したロシア軍の蛮行をこれでもかと報じた彼女は、「売国奴」「汚らわしい嘘八百だ」と罵詈雑言を浴び、何度となく殺害予告を受けていた。しかしそれでも彼女は、チェチェン全土をくまなく歩きまわり、真実を伝え続けた。
自国の恥部をこれでもかと報道する「ノーバヤ・ガゼータ」から読者は離れ、売り上げは急減した。それでもムラトフ編集長は、彼女に自由に書かせた。
「『ノーバヤ・ガゼータ』は一つのチームだ。上が命令して記者たちに記事を書かせるというシステムではない。記者たちは一人一人が独立して信念をもって仕事をしている。編集長といえども、記者たちが書きたいと思うことを止める権利はない」
しかしその彼も、編集長権限を最大限に利用してポリトコフスカヤに命令したことがある。ムラトフ氏は、殺害予告が頻繁に舞い込む彼女の身を案じて、これ以上のチェチェン行きを禁止すると告げたのだ。彼女はそれに反発して二人は大げんかになった
「チェチェンでは、心ある人たちはほとんど殺されてしまい、チェチェンを取材するジャーナリストはもう私一人になった。だから私はチェチェン行きをやめない。生き残っている人を見捨てるわけにはいかない」
ポリトコフスカヤは涙を流してそう訴えた。
その数カ月後の2006年10月、彼女はモスクワの自宅アパートのエレベーターの中で、4発の銃弾を浴びた射殺体となって発見された。同紙が、ポリトコフスカヤを追悼する特別号を編集し終わった時、ムラトフ氏は記者たちに聞いた。
「このプロジェクトをこれからも続けますか」
「プロジェクト」とは「ノーバヤ・ガゼータ」のことだ。この時点で、同紙ではすでに、ポリトコフスカヤを含めて3名の記者が殉職していた。
「言論の自由と引き換えに、仲間の命を差し出すことにいったい何の価値があるのだろうか」
彼はこうも言った。編集長として、仲間の命を守れなかった慙愧の思いが彼を苛んでいた。記者たちの返事次第で新聞社を閉鎖することを彼は考えていた。しかし記者たちはこぞって閉鎖に反対した。「今閉鎖すればそれこそ政権の思うつぼだ。絶対に存続すべきだ」
ムラトフ氏はその声に励まされて閉鎖を思いとどまったが、記者から「あなたは臆病すぎる」とまで言われた。報道の自由を守ることと、記者の命を守ることとの狭間で苦悩する管理職のジレンマである。
意外に思えるが、創刊時、ムラトフ氏は、ここまで政権とがっぷり四つに対峙する反体制的な新聞を作るつもりはなかった。
数年前に亡くなった古参の女性記者が私に耳打ちしたことがある。
「創刊時、彼は、政治の記事は紙面の一番最後でいいと言っていたんです。それよりも、ロシアの市井の人々の喜びや悲しみを生き生きと伝えるような記事を中心に据えたかった。でも残念ながら、その後のロシアの政情は、彼にそうした新聞を作らせる機会を与えませんでした」
時が流れ、政権批判の言論が主にインターネットに移った今も、同紙は週3回の発行を継続し、ロシアの良心としての存在感を示している。
ムラトフ氏は、賞金の一部を、難病の子らを支援する財団に寄付することを表明している。
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福田ますみ
1956(昭和31)年横浜市生れ。立教大学社会学部卒。専門誌、編集プロダクション勤務を経て、フリーに。犯罪、ロシアなどをテーマに取材、執筆活動を行なっている。『でっちあげ』で第6回新潮ドキュメント賞を受賞。他の著書に『スターリン 家族の肖像』『暗殺国家ロシア 消されたジャーナリストを追う』『モンスターマザー 長野・丸子実業「いじめ自殺事件」教師たちの闘い』などがある。