城下町はグルメの宝庫? 現存する「12天守」とともに楽しめる郷土料理一覧
戦闘力なき平和な天守
一方で、太平の世に築かれた天守は軍事力に乏しい。例えば、宇和島城天守。迎撃の意図が感じられない開放的な玄関には、歓迎の雰囲気すら漂う。屋根には、社寺建築に由来する格式高い唐破風(からはふ)が乗る。
また、破風は外壁を飾る装飾でしかない。内部に破風の間はなく、広々として居心地のよさが感じられる。階段の欄干も社寺建築のように美しく仕上げられ、もっとも平和な現存天守といえそうだ。
1596(慶長元)年から宇和島城を築いたのは藤堂高虎だが、現存する天守は1666(寛文6)年頃に、宇和島伊達家2代の宗利が建てた。4代将軍・徳川家綱の治世で、天下泰平の世にあった。唐破風に用いられた木材には宇和島伊達家の3種類の家紋(九曜紋、竹に雀紋、竪三引両(たてみつびきりょう)紋)が刻まれている。
同様に、1683(天和3)年頃に建てられた備中松山城天守も戦闘力が低い。
この城は、戦国時代に拡張された巨大な山城の一部を、江戸時代に総石垣に改修したもの。だが、江戸時代には山麓の御根小屋が政庁として機能し、山上の城は使われていなかった。その山上にある天守2階には御社壇が設けられ、宝剣三口を守護神として安置。落城も経験した山城に佇む天守は、神格化された存在だったのかもしれない。
高さ約11メートルと小ぶりだが、正面には唐破風付きの巨大な出窓が存在感を放ち、2階両端の縦連子もアクセントになっている。
伊予の松山城天守は、幕末に建てられたもっとも新しい現存天守だ。1602(慶長7)年から築城した加藤嘉明が建てた五重の天守を、1635(寛永12)年に松山藩主となった松平定行が三重に改築。その天守も1784(天明4)年に落雷で焼失したため、1852(嘉永5)年に再建された。定行は家康の甥にあたり、現存天守で唯一、屋根瓦に徳川家ゆかりの葵御紋が付されている。
[2/6ページ]