ノーベル平和賞受賞、ドミトリー・ムラトフ氏「暗殺国家ロシア」との戦い
2021年のノーベル平和賞は「表現の自由」のために戦う二人のジャーナリストに授与された。その一人、ドミトリー・ムラトフ氏は1993年にロシアで「ノーバヤ・ガゼータ」紙を発刊、95年から編集長を務めている。
「ノーバヤ・ガゼータ」は政権のタブーに切り込む独立系新聞として、プーチン大統領と鋭く対立を続けてきた。特に第2次チェチェン戦争でのロシア政府軍による人権侵害を伝えた同紙記者、アンナ・ポリトコフスカヤ氏の殺害事件(2006年)が国際社会に大きな波紋を広げ、この事件には黒幕の存在が指摘されつつもいまだに真相が明かされていない。
ジャーナリストの福田ますみ氏は、「ノーバヤ・ガゼータ」紙とドミトリー・ムラトフ氏に密着したルポルタージュ、『暗殺国家ロシア 消されたジャーナリストを追う』(新潮文庫)でその闇に迫る。
社会主義政権崩壊後、開かれた国になるはずだったロシアの内部で、何が起きてきたのか。以下、同書より抜粋・再編集してお届けする。
白昼堂々の射殺
「ノーバヤ・ガゼータ」紙の特派記者、エレーナ・ミラシナは言う。
「結局、この国では、軍服を着た人間や権力者はやりたい放題です。何をしても責任を問われない。反対にジャーナリストは、国家からまったく守られていない存在なのです」
実は、「ノーバヤ・ガゼータ」には、ジャーナリスト襲撃事件をとりわけ熱心に報じるある理由があった。この08年までに、同紙のジャーナリスト3名が次々に悲劇的な死を遂げていたからである。
2000年5月、評論員(日本で言えば、論説委員あたりに相当する)のイーゴリ・ドムニコフが、自宅アパートの入り口でハンマーで頭を殴られ、2カ月後に死亡した。03年7月には、副編集長のユーリー・シュチェコチーヒンが、毒物によると思われる奇怪な死を遂げた。
06年10月には、チェチェン戦争の真実を報道することに文字通り命を賭けた、評論員のアンナ・ポリトコフスカヤが白昼、モスクワ中心部の自宅アパートのエレベーターの中で射殺された。この事件は、「ロシアの言論の自由の危機」を象徴するものとして、全世界に衝撃を与えた。
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10月7日土曜日、この日、アンナ・ポリトコフスカヤの同僚だったゾーヤ・ヨロショクは、「ノーバヤ・ガゼータ」編集部で当直をしていた。
ヨロショクは自分の原稿を書き終えた後、ポリトコフスカヤから送られてくるはずの原稿を待ちわびていた。だが、何度メールチェックしても、原稿は届いていない。ヨロショクは首をひねった。
ポリトコフスカヤはわざわざ、「私の記事のためにページを割いてほしい」と頼んでいた。なにより彼女はとても几帳面な性格で、今まで締め切りに遅れたことは一度もなかった。もし何かあったら、せめてメッセージを送ってくるはずだが……。
これ以上待っても連絡がないようなら、こちらから電話をかけてみよう。そう思いながらヨロショクは午後3時頃に編集部を出て、友人と会い、レストランで食事を共にしていた。
4時半頃、携帯電話が鳴った。インタファックス通信の友人の男性からだった。友人は、とりとめもない世間話の後で、突然、こう聞いた。
「アンナは今、どこに住んでいる?」
「ドロゴミーロフスカヤ通りじゃないかしら」
「よかった、それじゃ、彼女じゃないな」
「何のこと?」
今度はヨロショクが尋ねた。
「アンナに似た女性が、リスナーヤ通りのアパートで殺されたらしい」
ハンマーで頭を殴られたようなショックが彼女を襲った。あわててポリトコフスカヤの携帯に電話を入れる。何度目かの呼び出し音の後、なにかのノイズが入り、誰かが出るような気配がした。
だが、電話がつながったと思ったのは気のせいだった。無常な呼び出し音がただ鳴り響くばかりで、彼女のあの声は聞こえない。
彼女はどうしていいかわからず、編集長のドミトリー・ムラトフに電話を入れた。彼は、挨拶抜きでいきなり言った。
「それは事実だ」
ムラトフの重く沈んだ声に、彼女は、頭の中が真っ白になった。
屈折した憧憬と妬みを抱く同業者
ポリトコフスカヤの殺害は、チェチェン戦争の記事の関係をおいて他にないと、大方の人々が考えていた。10月7日はプーチンの誕生日であった。プーチンにへつらう人間か、ないしはその手下が、プーチンへの最高の誕生日プレゼントとして企てたのではないかという者もいた。
暗殺者は、ポリトコフスカヤのアパートの中に潜んでいた。彼女が、自分の部屋のある階で、エレベーターから降りようと一歩を踏み出した刹那、至近距離から狙撃されたのである。撃ちこまれた銃弾は全部で4発で、3発は胸に、1発は頭に命中していた。
銃撃の衝撃で彼女の体は跳ね飛ばされ、エレベーターの壁に打ちつけられた。アパートの住人が発見した時、彼女は、血の海の中、体をくの字に曲げ、エレベーターの壁に背をもたせかけた格好でこと切れていた。
現場には、小型の自動装填銃マカロフが放置されていた。
「ノーバヤ・ガゼータ」には、事件直後から、おびただしい数の弔電が届き始め、弔問客も引きも切らなかった。ヨロショクたちは弔電をポリトコフスカヤの部屋の壁に貼ったが、すぐにスペースが足りなくなり、廊下の壁にまであふれた。まもなく社内の壁という壁は弔電で埋まってしまった。
他社のジャーナリストも弔問に訪れ、
「彼女の死に方は、ジャーナリストとしてうらやましい」
と漏らした。
政権による弾圧を恐れて、社内の厳しい自主検閲の枠内でしかものを書けない他のジャーナリストたちにとって、ポリトコフスカヤの、なにものも恐れず、なにものにも捉われない勇敢さと果敢さは、ある種の屈折した憧憬と妬みを買っていたのである。
国民から投げつけられた罵詈雑言
「言論の自由と引き換えに、仲間の命を差し出すことに、いったい何の価値があるのだろうか」
編集長として、彼女の命を守れなかったことに対する悔恨と慙愧の念がムラトフを苛んでいた。もうこれ以上、なにがあっても仲間を死なせてはならない。
そもそもポリトコフスカヤがチェチェン報道にのめり込んでいったのは、ムラトフが彼女をチェチェン特派員に指名したことがきっかけだった。99年夏、ちょうど彼女が、「オープシャヤガゼータ(「一般の新聞」の意)」という新聞から「ノーバヤ・ガゼータ」に移籍してまもない頃である。以後彼女は、チェチェンをくまなく歩き回って、戦時下の市民の生の声を伝えていく。
しかし、ロシア軍の蛮行をこれでもかと暴く彼女の記事は、「ノーバヤ・ガゼータ」の読者だけでなく、人々の間に激しい動揺と拒絶反応を巻き起こした。「自分の国の名誉を傷つける売国奴」「汚らわしい嘘八百だ」。そんな罵詈雑言が投げつけられた。
2000年5月に就任したプーチン大統領は、着々と報道統制を進め、チェチェン侵攻に際しても厳しい取材規制を敷いた。なにより国民が、チェチェンの“テロリスト”を掃討するために侵攻を開始したプーチンの強硬姿勢を支持していた。
しかし、編集長のムラトフは彼女の記事を全て掲載した。
「『ノーバヤ・ガゼータ』はひとつのチームです。上が命令して、記者たちに記事を書かせるというシステムではない。記者たちは一人一人が独立して、信念を持って仕事をしている。編集長といえども、記者たちが書きたいと思うことを止める権利はないし、書きたくないことを無理強いする権利もないのです」
自分の命を守るためには、書き続けるしかない
ポリトコフスカヤの一連のチェチェン報道によって、「ノーバヤ・ガゼータ」の発行部数は急落した。
新聞の財政を健全化することは、もちろん編集長であるムラトフにとっての使命である。しかし、彼にとってもっと大切なことがある。それは、記者一人一人の命を守ることだ。
彼は最近、最も危険な取材をしている2人の記者にボディーガードをつけた。さらに、内務省宛に、記者の武器携帯を認めるよう求める手紙を送っている。国家がジャーナリズムを守らないなら、ジャーナリスト自らが武装せざるをえない。ムラトフがそこまで考えるほど、ロシアの言論は追い詰められているのだ。
先にふれた3人の犠牲者に続き、「ノーバヤ・ガゼータ」のオフィスの中に飾られる遺影写真は増える一方だ。
09年1月、同紙の顧問弁護士で、戦争犯罪や人権蹂躙事件の被害者の弁護を担当していたスタニスラフ・マルケロフと、彼を取材中だった「ノーバヤ・ガゼータ」の契約記者アナスタシア・バブーロバが、白昼のモスクワの路上で射殺された。
さらに同年7月、同じく契約記者で、人権活動家でもあったナターリア・エステミロワがチェチェン共和国の首都グローズヌイで拉致され、殺害された。
いったい、「ノーバヤ・ガゼータ」の他の記者たちは、同僚のこれだけの悲劇を目の当たりにしてもひるむことはないのだろうか。
エレーナ・ミラシナが言う。
「アンナ・ポリトコフスカヤが殺された時は、ものすごく怖ろしかった。彼女の、ジャーナリストの域を超えた人権擁護の活動が危険であることはわかっていましたが、まさか白昼に、それも女性が、モスクワのど真ん中で射殺されるなんて……。でも、マルケロフ弁護士が殺された時に感じたのは恐怖よりも怒りです。自分の命を守るためにはむしろ、ジャーナリストとしての仕事を続けなければならない。そう決心したのです」
ジャーナリストの権利擁護を訴えている「緊急事態ジャーナリズムセンター」のオレグ・パンフィーロフの調査によれば、ロシアでは、ジャーナリストの身辺を脅かす襲撃事件が年間80~90件起こっている。「ノーバヤ・ガゼータ」のジャーナリストたちのように、最悪、殺害されるケースも後を絶たない。
「グラスノスチ(情報公開)擁護財団」のアレクセイ・シモノフ所長によると、プーチンが大統領に就任した2000年から09年までに、120人のジャーナリストが不慮の死を遂げている。
「このうち約70%、つまり84人が殺害されたとみられるが、自身のジャーナリスト活動が原因で殺されたと推測できるのは、さらにそのうちの48人だ。48人の殺害のほとんどは嘱託殺人と思われるが、首謀者、実行犯ともに逮捕された例は数えるほどしかない」
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福田ますみ
1956(昭和31)年横浜市生れ。立教大学社会学部卒。専門誌、編集プロダクション勤務を経て、フリーに。犯罪、ロシアなどをテーマに取材、執筆活動を行なっている。『でっちあげ』で第六回新潮ドキュメント賞を受賞。他の著書に『スターリン 家族の肖像』『暗殺国家ロシア』『モンスターマザー』などがある。