大工さんから球宴出場も…ドラフト「最下位指名」から大化けしたスゴい選手たち

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まさに“ギリギリセーフ”

 田畑同様、全体指名の最下位から頂点に上りつめた男が、93年のロッテ7位・福浦和也(習志野)だ。高校時代は1年からエースで4番を打ち、2年夏に県大会8強入り。最後の夏は雨にぬかるんだグラウンドで力を発揮できず、3回戦で敗退したが、スポーツ紙での評価はランクCながら、貴重な左腕としてリストアップされていた。

 そして、ドラフトではロッテが7位、全体でも最下位の64番目に指名。まさに“ギリギリセーフ”だが、本人は「地元・千葉だったことが幸いしたのでは」と回想している。92年から本拠地を千葉に定めたロッテは、成績不振も影響し、93年の観客動員数は12球団でもワースト。この状況を打開するために、地元出身選手を入団させ、“千葉の球団”のイメージを一層アピールする必要に迫られた。

 同年のドラフトでも、夏の甲子園で活躍した立川隆史(拓大紅陵)を2位指名しており、最下位ながら福浦が指名されたのも、地域密着型の営業戦略の一環と言えなくもない。

 入団時に打者転向を打診された福浦は「1年でもいいからやらせてください」と投手にこだわったが、半年で3度も肩を痛め、投げられない日が続くうち、山本功児2軍打撃コーチから「お前は打者に転向したほうがいい」と強く勧められ、ようやく踏ん切りがついた。

「もともと打つことは嫌いではなかった。投手経験を生かして配球を読んだり、打たれたときの悔しさもわかりますから、そういうことが打者としての成長にとても役立ちました」(福浦)

 以来、「練習量はすごかった」と山本コーチも感心するほどの精進を重ね、97年に1軍昇格。“64番目の男”は、01年に小笠原道大(日本ハム)との争いを制して首位打者に輝き、18年には通算2000本安打も達成した。

「どちらのほうが打てるんだ?」

 93年のロッテは、福浦以外にも5位・諸積兼司(日立製作所)、6位・小野晋吾(御殿場西)と下位指名の3人全員が主力に成長。これもドラフトの面白さである。

 昨年のセ・リーグ首位打者、DeNA・佐野恵太もまた、16年のドラフトでは最下位の9位指名。全体でも87人中84番目と、意外に低い評価だった。

 明大時代には2年春からリーグ戦に出場し、3年秋からレギュラー定着。4年時は春秋とも打率3割以上をマークし、大学通算6本塁打を記録するなど、強打の左打者として安定した成績を残したが、プロでは主に助っ人の定位置となる一塁手であることがネックになった。

 そして、9位指名も、一歩間違えれば幻と消えていた可能性があった。同年はチーム最後の指名枠をめぐり、もう一人、大学生の内野手が候補に挙がっており、一塁手の佐野より守備面で評価が高かった。総合力で見れば、こちらに軍配が上がっていても、おかしくないところだ。

 だが、代打陣の補強を考えていた高田繁GMは「どちらのほうが打てるんだ?」とスカウトに尋ね、「佐野です」の答えが返ってくると、佐野の9位指名を決断する。プロ入りの夢を実現させてくれたのは、まさに紙一重の幸運だった。

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