大洋入団を拒否した早大内野手が暴漢に襲われた…ドラフト史に残る“三大事件”
きっかけは「指名回避要望書」の送付
日本のドラフトを経ずにMLBと契約した選手にペナルティを科す「田沢ルール」が生まれたのが08年だ。
同年の都市対抗優勝投手で、新日本石油ENEOSの右腕・田沢純一が9月11日、メジャー挑戦を表明し、全12球団に「指名回避要望書」を送付したことがきっかけだった。
これに対して、NPB側は10月6日、日本プロ野球の人気低下を防ぐなどの目的から「日本のドラフトを拒否して海外のプロ球団と契約した選手は、当該球団を退団したあとも一定期間(大卒・社会人は2年間、高卒は3年間)NPB所属球団と契約できない」とする新ルール(田沢ルール)を決定した。
だが、田沢本人は「騒動になるかもとは聞いていたが、ルールが変わってしまうとは想像もしなかった。(退団後)日本に帰ってくるとは考えていなかったし、そういうふうになったんだという感じ」と至ってクールだった。
ドラフトで全球団が指名を回避したあと、田沢は同年12月にレッドソックスと契約。13年に上原浩治とともにワールドシリーズ制覇に貢献するなど、実働9年で通算21勝26敗4セーブ89ホールドの成績を残した。
その後、「田沢ルール」は昨年9月5日、NPB側が自主的に撤廃。これにより、当時BCリーグ・埼玉に所属していた田沢も同年のドラフトで指名可能になったが、34歳という年齢もあり、指名する球団はなかった。
実は、田沢は当初「何が何でもメジャー」というわけではなかった。「今の自分の力では、NPBで通用しないのではないか」と悩んでいたときに、レッドソックスから「3年育成プラン」を提示され、心を動かされたのが決め手になったという。
結果論だが、12年のドラフトで、日本ハムが当時メジャー志望だった大谷翔平に育成プランを示したのと、同様のアプローチをする球団が現れれば、田沢はメジャーに行かなかった可能性もあり、「田沢ルール」も生まれていなかったかもしれない。
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