大洋入団を拒否した早大内野手が暴漢に襲われた…ドラフト史に残る“三大事件”
今年で57回目を迎えるドラフト会議。過去には、“超目玉選手”の獲得をめぐり、社会的に波紋を呼んだ事件も起きている。ドラフト史に残る三大事件を紹介する。
前代未聞の“荒川事件”
指名選手が暴漢に襲われるという“前代未聞”の事件が起きたのは、1970年1月5日の夜。前年のドラフトで大洋に1位で指名されるも、入団を拒否していた早大の内野手・荒川尭が愛犬を連れて自宅付近を散歩中、突然後ろから何者かに棍棒で頭と左手を殴りつけられた。
犯人はそのまま逃走し、荒川は後頭部と左手甲に全治2週間の打撲傷を負った。大学通算19本塁打を記録した荒川は、父・荒川博がコーチを務める巨人と神宮球場を本拠とするアトムズを逆指名していたが、アトムズは指名順9番、巨人は11番と出遅れ、3番くじを引いた大洋が荒川を指名した。
同じセの在京球団とあって、「よりによって、最も断りにくい球団」と悩んだ荒川は、入団を拒否したまま年を越していた。これらの事情から、警察は「大洋拒否を恨んだ者の犯行」とみて捜査を開始したが、現在に至るまで犯人はわかっていない。
その後、大洋側が荒川に対し、ヤクルト(70年1月にアトムズからヤクルトアトムズに改称された)への三角トレードを持ちかけ、交渉期限が切れる2日前の同年10月7日に大洋と契約。12月26日にヤクルト移籍が実現した。
しかし、荒川は「ドラフト破り」と野球協約違反に問われ、ペナルティとして開幕から1ヵ月間、公式戦出場停止処分を受けた。一連の騒動は、“荒川事件”と呼ばれている。
ヤクルト2年目に18本塁打を記録した荒川は翌73年、殴られた後遺症から左目の視力が低下。回復しないまま75年に現役引退した。筆者は以前、実業家に転身した荒川氏を取材する機会に恵まれたが、“運命のドラフト”から幾星霜を経て、「ドラフトでは、指名された球団に素直に入るべきだね」と語っていたのが印象的だった。
ごり押しをする=「エガワる」
“50年に一人の逸材”江川卓の獲得を狙う巨人が、ドラフト前日に江川と電撃契約し、世間を驚かせたのが、78年の“空白の一日事件”だ。
前年のドラフトでクラウンに1位指名された江川は、巨人入りを熱望して入団拒否。翌年のドラフトで巨人入りを目指し、“一浪”して米国に留学した。
だが、確実に指名できる保証のない巨人は、ドラフト前日の11月21日に江川との契約を強行する。指名選手と交渉できるのは、翌年のドラフトの前々日までと定められた当時の野球協約の盲点をついたもので、ドラフト前日の江川はフリーになり、どの球団とも契約できるという解釈だった。
しかし、この日は調整のために設けられた予備日であり、江川との契約は、明らかにドラフト破り。鈴木龍二セ・リーグ会長も「契約は無効」と却下した。
これを不服とした巨人側は、翌日のドラフト会議出席をボイコット。ドラフトは、11球団で行われ、江川は4球団競合の末、阪神が交渉権を獲得した。これに対し、巨人は「12球団全員出席の下でないドラフト会議は無効」と提訴したが、12月21日、金子鋭コミッショナーは「巨人の提訴却下、江川の入団交渉権は阪神に」の裁定を下す。
ところが、江川の“二浪”を球界全体の損失と考えた金子コミッショナーは翌22日、「江川を阪神に入団させたあと、速やかに巨人にトレード」と要望。この結果、小林繁との三角トレードが成立した。
世間は小林に同情し、強引な形で巨人入団を実現した江川は、「エガワる」(ごり押しをする)という言葉も生まれるなど、激しいバッシングを受けることになる。
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