日本人初の金メダリスト「織田幹雄」のストイックさに見る「スポーツ選手の理想像」の変化(小林信也)
日本名を自ら命名
オリンピックで最初に金メダルを獲った日本選手は、三段跳びの織田幹雄。1928年のアムステルダム大会での快挙だった。
〈織田、第一等! 三段飛びに優勝す〉
新聞に見出しが躍った。「ホップ・ステップ・アンド・ジャンプ」を略して「ホ・ス・ジャンプ」と呼ばれていた競技名を「三段飛び」にしたらどうかと提案したのが早稲田大の織田だった。織田は自ら日本名をつけた競技で世界の頂点に立った。
大会前、織田は世界の強豪たちからライバル視される存在ではなかった。4年前のパリ大会に出場し、6位に入ったが、記録は14メートル35センチ。優勝したニック・ウィンター(豪)の15メートル52センチには遠く及ばなかった。しかも織田の身長は1メートル67センチしかない。ライバルに畏怖を与える体格でもない。
三段跳びの前日、織田は走り幅跳びで失敗し負けた。その落胆もあり、不安で一睡もできなかった。
その夜の葛藤を著書『21世紀への遺言』に書いている。
〈あれやこれやと思い悩んでいるうちに、ふと800mで優勝したイギリスのローのことを思いだした。(中略)自分の持っている能力を発揮するために、他の選手を問題にせず、自分のペースで機械的に走り、残った力を最後に爆発させたローの計算による勝利であった。(中略)さんざん考えぬいた末、ローの優勝を思い出して得たことは、私も他の選手のことなど考えず、自分の計算どおりやればよい、ということであった。〉
三段跳びは、2組に分かれて予選から始まった。3度の試技で上位の選手が決勝に進み、さらに3回の試技が許される。予選の記録も決勝に持ち越される。
織田は、優勝候補がそろう組に入った。1回目、強豪たちが続けてファウル。織田はファウルに気をつけ、力まずポーンポンと楽に跳んだ。15メートル13。1回目としては上出来だ。2回目、力まないよう注意して15メートル21を跳んだ。3回目は力んだせいかファウルだった。結局2回目の15メートル21を上回る選手が現れず、織田に凱歌があがった。
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