なぜ大阪で初の民間「小児ホスピス」は誕生したのか 支援者の特別な思い【石井光太】

ドクター新潮 医療 その他

  • ブックマーク

日常が崩壊する体験と父親の病死

 同じ頃、プロジェクトにボランティアとして参加していた女性がもう一人いる。後に、TSURUMIこどもホスピスのアシスタントケアマネージャーとなる市川雅子だ。

 市川が阪神・淡路大震災を体験したのは、大阪厚生年金病院(現・大阪病院)で看護師として働いていた時のことだ。交通や情報が遮断されて同僚が病院に来られなくなったり、実習時代に知り合って文通をしていた患者が被災して連絡が取れなくなったりした。

 すでに仕事で難病の子供たちとかかわっていたが、日常が崩壊する体験に加え、同じ年に父親が病死したのも重なって、彼女もまた命についてこれまで以上に深く考えるようになったという。

 市川は語る。

「ホスピスのスタッフでも、当時関西に住んでいた人なら、なにかしらの体験はしています。どこまでホスピスの活動に影響しているかは人それぞれだと思いますが、命について考える時に、そうした体験が活きることはあるかもしれません」

 こうしてみると、震災の経験が命のあり方を見直すきっかけになった人は少なからずいるのだろう。

「JR福知山線脱線事故と深くかかわっている」

 同じことは事故についても当てはまる。

 TSURUMIこどもホスピスが立ち上がった時、同じ建物で「ビリーブ」という団体が活動をしていた。事故や病気などで子供を失った親たちが集まり、同じような境遇の人たちの悲嘆を分かち合って支援する団体だ。

 ホスピスの役割の中には、難病の子供を支援することの他に、子供の死後に悲嘆に暮れる親を支えることも含まれている。ビリーブとの共通の課題も多い。

 私が取材したビリーブの関係者の中には、JR福知山線脱線事故の遺族もいた。学生だった息子が学校へ行く途中で事故に巻き込まれ、命を落としたのだ。母親は突然訪れた悲劇を受け入れることができず、その深い悲しみから心身に不調が現れて苦しんだ。

 長い月日を経て、他の遺族と支え合うなどして彼女は少しずつ回復していったが、自分と似たような境遇の人たちが大勢いることを知る。そして彼女は心に空いた穴を埋めるようにグリーフケア(遺族のためのケア)の勉強をし、悲嘆に暮れる遺族を支える立場に回ることにした。

 彼女はこう語っていた。

「今の活動が、JR福知山線脱線事故と深くかかわっているのはまちがいありません。私の場合は、事故の後に何もなかったかのようにそれまでと同じ日常を生きていくことはできませんでした。自分自身の経験に向き合って生きていく必要があったのです」

 誰もが事故の悲劇を過去のものとして平然と生きていけるわけではない。悲劇を乗り越えるためにも、自身の体験を社会に役立てたいという人もいる。そんな人たちが、同じわが子を失った悲しみを背負う人たちの心を和らげているのだ。

次ページ:小学生の頃の被災体験

前へ 1 2 3 4 次へ

[3/4ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。