なぜ大阪で初の民間「小児ホスピス」は誕生したのか 支援者の特別な思い【石井光太】
「命に対する意識が変わった」
私はこのホスピス設立までの道のり、そしてその後の物語を『こどもホスピスの奇跡 短い人生の「最期」をつくる』(新潮社)というノンフィクションにまとめたが、取材中につくづく感じたのは、関西という土地とのかかわりだった。
設立にかかわった人たち、あるいは支援者に話を聞くと、それまで関西で起きた阪神・淡路大震災やJR福知山線脱線事故など災害や事故を経験した人たちが少なからずおり、それらを機に「命に対する意識が変わった」と発言する人が多いのである。
TSURUMIこどもホスピスは、「こどものホスピスプロジェクト」という大阪発のボランティア団体が前身だった。難病の子供にかかわる看護師や保育士といった人たちが手弁当でイベントを開催したり、家族への個別支援を行ったりしていたのだ。
当時のボランティアの一人に、山地理恵(現在、大阪市立総合医療センターのホスピタル・プレイ・スペシャリスト)がいる。
20代の頃、山地は保育士として大阪市内の保育所で働いていたが、1995年に起きた阪神・淡路大震災を契機に、被災者へのボランティア活動をはじめる。被災地へ通い、子供からお年寄りまで多くの人に触れているうちに、不意の出来事によって日常を破壊されてしまった人たちを支援することに大きな価値を見出していく。
支援とは、相互的なもの
驚きだったのは、彼らを励ましているはずなのに、逆に多くの勇気や力をもらったことだという。支援とは、一方的なものではなく、相互的なものなのだ。
――これから自分は、こういう形で社会に貢献した生き方をしたい。
そんなふうに考えていた矢先に出会ったのが、難病の子供たちについて書かれた新聞記事だった。それによれば、難病の子供は病院に閉じ込められ、何年もつらい治療を受けているうちに、生きる喜びを奪われてしまっているという。欧米と違い、日本には子供や家族を支援するシステムが未整備だということも指摘されていた。
難病の子供も、震災の被災者同様に、日常や暮らしを理不尽に壊されてつらい思いをしている人たちだ。
山地はそれに気がつくと、自費でイギリスへ渡り、病院で遊びを通して子供と医療をつなぐホスピタル・プレイ・スペシャリストの資格を取った。日本人としては二人目だった。そして日本に帰国し、病院で勤務しながら、こどもホスピスプロジェクトにかかわり、難病の子供や、その家族の支援をしたのである。
彼女は次のように語っていた。
「私にとって震災が命を見つめるきっかけになったのは確かだと思います。それだけ大きなものでした」
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