自民党総裁選10番勝負 最も激しい戦いだったのは田中VS福田VS大平VS三木

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【4番勝負】 田中角栄×福田赳夫×大平正芳×三木武夫(1972年7月)

 佐藤は人事の妙を武器に、藤山愛一郎や三木武夫の挑戦を退けつつ総裁四選を達成した。ただその四選時にも、岸信介らは福田赳夫への禅譲を要請した。田中角栄らは佐藤に四選を勧めてこれを実現する一方、来たるべき角福決戦の準備を進め、沖縄返還を花道に佐藤が退陣した1972年7月の総裁選挙で、福田外相、田中通産相に大平正芳と三木武夫も立候補し、自民党総裁選史上でももっとも激しい選挙戦となった。

 このころ、キッシンジャーによる頭越し外交に狼狽した世論は早期の日中国交樹立を要求し、佐藤と同様に慎重な姿勢をとり続けた福田は立場を悪くした。

 また、田中の『日本列島改造論』は大都市との格差に悩む地方の人々から熱烈歓迎された。政治資金についても、大企業から公共事業関係業界にシフトが進んでいた。このため、第一回投票で予想に反して福田は150票で156票の田中の後塵を拝した。予想通りに福田が首位でも、101票の大平と69票の三木は決選投票での田中支持を表明しており、接戦が予想されたが、第一回で田中が一位になったことで地滑り現象が起き、第二回投票では田中が282対190で圧勝した。

【5番勝負】 大平正芳×福田赳夫×中曽根康弘×河本敏夫(1978年11月)

 その後、田中から三木武夫への政権移行では、椎名悦三郎副総裁による裁定があり、三木から福田には派閥間の話し合いで禅譲されたため、総裁選は無投票だった。しかしこの時に、福田は大平正芳に、幹事長のポストを渡し二年後には政権を譲る約束をしたらしい。

 だが、外交面での成功などで自信を付けた福田は、国会議員票では劣勢でも、初めて行われることになっていた一般党員の予備選で優位に立ち、その勢いで議員の支持も得られるとみて約束の存在を否定し1978年11月の総裁選挙に突入した。

 一般党員投票は初めてのことで党員名簿は非公開だったが、大平陣営は田中派の全面支援を受け、過去の都道府県別の党員名簿を手に入れて丁寧な集票活動を行い、福田、中曽根康弘、河本敏夫に圧勝した。

 福田は予備選での勝利を疑っていなかったので、「(予備選で大差がついたら)天の声に従うべき」で、その場合には、党大会での投票は行わないことを呼びかけていたので、「総理大臣が自分で言ったことを覆すわけにはいかない」と立候補を取り下げ、記者たちに対しては「天の声もたまには変な声がある」という迷言を残して舞台から去った。

 大平正芳首相が急逝したあとは、西村英一副総裁の裁定で鈴木善幸が総裁に就任した。その二年後に、再選出馬が確実視されていたが、突然、退陣を表明した。鈴木首相は、外遊のときには必ず中曽根康弘行革相を臨時代理にして後継者候補ナンバーワンだと印象づけており、闇将軍といわれた田中角栄も同意した。だが、田中主導の党運営に対する抵抗は強く、河本敏夫、安倍晋太郎、中川一郎も立候補して二度目の予備選が行われた。結果は、中曽根の圧勝で、他の候補は本選への立候補を辞退し、1982年11月に中曽根が総裁に選出された。

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