自民党総裁選10番勝負 最も激しい戦いだったのは田中VS福田VS大平VS三木
【2番勝負】 池田勇人×石井光次郎×藤山愛一郎×松村謙三×大野伴睦(1960年7月)
岸は総裁として三選されたが、いずれも無風選挙、ないしそれに近かった。安保騒動で岸が退陣したあとの1960年7月の総裁選挙では、多数の立候補が予想された。岸はその前年の党内抗争時に、次は大野伴睦副総裁、その次は河野一郎(河野太郎の祖父)という密約を交わしていたが、自分の派閥・岸派を解散するという奇手で約束を反故にし、実質上は通産相だった池田勇人の当選のために動いた。
大野は立候補断念に追い込まれ、第一回の投票では、池田が246票、党人派代表と言われた石井光次郎が196票、外相だった藤山愛一郎が49票で、決選投票では池田が圧勝した。党人派の権力掌握に不安を持った岸が、同じ官僚出身の池田を後継に据えたのである。
【3番勝負】 池田勇人×佐藤栄作×藤山愛一郎×瀬尾弘吉(1964年7月)
首相となった池田は『所得倍増計画』を成功させ、二選目は無風だったが、三選目の1964年7月の総裁選挙では、岸信介の実弟でありながら、池田と同じ吉田茂の弟子でもあり、「高度成長」に対する「安定成長」を掲げた佐藤栄作の挑戦を受けた。予想では池田の圧勝だったが、池田242票に対して佐藤が160票と意外な健闘をして次期総裁候補としてのパスポートを手に入れた。
この年は東京五輪の年だったが、池田は「前がん状態」であることを公表、開会式には出席したが閉会式は欠席し、12月に行われた総裁選挙では、石橋から岸にバトンタッチされた経緯に倣うということで、池田は佐藤を後継総裁に指名した。このとき、総裁選挙で池田を支持して内閣でナンバーツーとなっていた河野一郎五輪相は、後継者としての基盤を確立できておらず、涙を呑んだ。
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