千葉真一さんを偲ぶ 若山騎一郎が今も悔やむ“中華料理屋の夜”

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 映画では「仁義なき戦い 広島死闘編」(1973年)や「戦国自衛隊」(79年)、ドラマでは68年から5年連続で放送された「キイハンター」……。多くの作品で活躍した俳優・千葉真一が亡くなったのは8月19日のことだった。享年82。日本のアクションスターの先駆け的存在である千葉は、芸能事務所「JAC(ジャパンアクションクラブ)」を立ち上げ、後進の育成にも尽力したことで知られる。同事務所出身の若山騎一郎(56)と現代表の西田真吾(58)が、“恩師”について語った。

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 7月末から体調を崩し、その後、新型コロナウイルスへの感染が発覚した千葉は、自宅近くの病院で息を引き取った。西田はその臨終の場に立ち会うことができた。

「8月19日の午前11時半頃、千葉のマネージャーから電話が来ました。『病院から連絡があった。容態が良くない。今日の夜から明日にかけてが山場かもしれない』という趣旨だったと思います」

 千葉県・君津の病院に到着したのは午後4時20分ごろ。防護服を2重に着用して病室に向かうと、変わり果てた千葉の姿があった。

「おでこは熱いんですが、手足は氷のように冷たくなっていました。体はやせ細っていて……。これはダメなんだろうなと、ひと目見て感じました。それでも『千葉さん、西田です』と5回くらい話しかけましたが、反応はありませんでした。主治医からも『状態はかなり悪いです。回復する可能性は限りなく低いと思ってください』と告げられ、その言葉を聞いた瞬間、頭がクラクラっとしたのを覚えています」

 とっさに出た言葉は「エクモ(体外式膜型人工肺)は使えないんですか?」だった。西田自身がコロナウイルスに罹患した経験があり、エクモを使えば助かる見込みがあるのではと思ったからだ。

「医師は『今の状態でエクモを使っても逆に寿命が短くなる可能性がある』と仰いました。こちらは素人なので『そんな馬鹿な!』と思ったのですが、酸素吸入器をつけて伏せている千葉さんを見ると確かに医師の言う通りかもしれない、と感じました」

真剣佑に逝去を知らせると…

 そして対面してから30分後の午後5時26分、千葉は息を引き取る。

「アメリカにいるマッケン(※千葉の長男で俳優の新田真剣佑=24=)から偶然にも、電話が掛かってきていました。折り返して『今、亡くなられた』と伝えると、電話越しのマッケンはしばし沈黙していました。その後『西田さんは大丈夫?』、『みんなは大丈夫?』って声を掛けてきてくれましたね。父親を亡くした直後なのに周りの心配をするなんて、随分マッケンも大人になったなと感じましたね」

 その後、マネージャーとともにJACの関係者や千葉の長女で女優の真瀬樹里(46)、次男で俳優の眞栄田郷敦(21)らに電話で千葉の死を知らせたという。最後にかけた相手が、若山だった。

 若山の父は昭和の名優・若山富三郎である。富三郎は千葉の殺陣の師匠でもあり、千葉が主演した映画「魔界転生」(81年)でも共演している。

「(92年に)父が亡くなった後、三回忌のころかな。千葉さんが『今日から俺のことは親父って呼んでいいぞ』って言ってきてくれました。俺が4年前に再婚した時も、親父が婚姻届けの証人欄にサインをしてくれました。新婚旅行にまで付いてこられたのは余計でしたけど、今では良い想い出です」(若山)

 一つだけ悔いが残ることがあるという。

「親父(千葉)が亡くなる1か月半の7月3日のことです。銀座の行きつけの中華料理屋で親父や西田さんを交えて飯を食っていたんです『ワクチンを打つ、打たない』でちょっとした口論になりました。今思えばあの時、無理にでもワクチンを打つようにもっと強く勧めていればと思うと……」

 西田も同じように悔恨の念を明かす。

「千葉さんは反ワクチンではありませんでしたが、高齢ということもあり副反応を気にしていたのは事実です。一方で『俺は身体を鍛えているから』と自身の体力を過信していたのかもしれません」

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