高市早苗の後ろ盾は安倍前首相ではなく森喜朗元首相?「勝手補佐官」で強固な師弟関係
93年の高市vs.野田
「高市さんと言えば、安倍さんというより、森喜朗元首相(84)に可愛がられていたことで有名です。森さんからすれば、高市さんは可愛い“弟子”。彼女が一世一代の大勝負に出たわけですから、“師”が応援しないはずがない。安倍さんがいち早く高市支持を表明したのは、森さんから頼まれたのではないかと言われています」
高市氏が衆院選で旧奈良県全県区から無所属で出馬し、初当選を果たしたのは1993年7月。3か月後の10月、高市氏は朝日新聞のインタビューに応じ、大阪版で記事が掲載された(註:末尾参照)。
高市氏は選挙区で「森喜朗の妾」という怪文書がばらまかれたことや、高校の同級生から「政治家の愛人をしているの?」と真顔で質問されたことなどを、率直に語っている。
それから5年後、98年に日刊スポーツの名物コラム「政界地獄耳」に、「野田聖子郵政相に息巻く通産政務次官・高市早苗」が掲載された。
当時の首相は故・小渕恵三氏(1937~2000)。小渕内閣で野田聖子・幹事長代行(61)が郵政相に抜擢されたことを、高市氏が「党への貢献度は私の方が上」と怒っているという内容だった。
勝手補佐官
記事では、高市氏を《幹事長・森喜朗の側近》とし、《「森内閣ができたら目玉大臣にするから」と、なだめている》と結んだ。
森内閣は2000年に誕生したが、高市氏が目玉大臣になることはなかった。しかし、「勝手補佐官」で脚光を浴びる。
高市氏は公式サイトにコラムを掲載しているが、2000年8月に「勝手補佐官誕生」の記事を配信した。
勝手補佐官とは何なのか。それを説明するためには、当時の政治状況を振り返る必要があるだろう。
当時の森首相は2020年5月に、「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国」と、いわゆる神の国発言を行い、野党を中心に政教分離の原則に反すると批判が高まった。
6月に野党から内閣不信任決議案が提出されると、森内閣は衆院解散を決定。総選挙が行われた。
森首相の「無党派層は寝てくれればいい」という発言も問題視され、自民党は解散前の271から233へと議席を減らし、単独過半数を割り込んだ。公明党と保守党との連立で、辛うじて過半数を維持した。
総選挙が終わると、特別国会で首班指名が行われ、森首相が選出された。第2次森内閣が発足したわけだが、ここで高市氏のコラムから引用させていただこう。
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