健康な人の便を腸に移植? 「生活習慣病」「難病」に光明
毎日行っている排泄行為だが、便には腸内環境の貴重なデータが含まれているのをご存じだろうか。健康の鍵は腸内にあり。さまざまな病気の原因がその乱れにあることもわかってきた。そこで注目されているのが、健康な人の便を大腸に移植する画期的な治療法だ。
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「排泄後、あなたは自分のうんちを見ていますか?」
「自分のうんちの色を知っていますか?」
「自分のうんちのかたちやにおいはわかりますか?」
このような質問をすると、ほとんどの人は「NO」と答える。排泄は私たちが生きるためのもっとも重要な行為の一つ。ところが、無関心な人は多い。すっきりしてトイレの水を流すと、うんちは見えなくなる。その瞬間に排泄したことを忘れてしまうのだろう。
あるいは、うんちを汚いものと決めつけて、目を背ける人も少なくない。しかし、身体の中から現れるうんちを侮ってはいけない。私たちの健康状態を教えてくれる大切な存在なのだ。
「自分の健康のために、そして家族の健康のために、私たちは便をもっと意識するべきだと思っています」
そう語るのは、慶應義塾大学先端生命科学研究所特任教授の福田真嗣(しんじ)さんだ。
福田さんは、うんちから得られるデータを使って腸内フローラを分析し、病気の治療や予防に役立てる研究を行っている。腸内環境を整えることで、病気ゼロ社会の実現を目指す。今、腸内フローラ研究の最前線で活躍する一人だ。
この“腸内フローラ”とは腸内細菌叢(そう)のこと。私たちの腸には数百から千種類、約40兆個の細菌がいて、花畑状にすき間なく生息するため、腸内フローラと呼ばれている。
福田さんは明治大学農学部出身。子どものころに、樹液の化石の中の恐竜の血液から恐竜のクローンをつくるマイクル・クライトンのSF小説『ジュラシック・パーク』を読んだことから理系の道へ進んだ。大学の研究室では、牛やヤギなど反芻動物の消化器の中の微生物を研究し、やがて犬や猫の腸内環境を研究するようになった。
「大学周辺で犬の散歩をしている人に声をかけて、犬の便を分けてもらっていました。変な人だと思われていたかもしれません」
明治大学大学院農学研究科の博士課程修了後は理化学研究所でヒトの腸内環境を研究。2011年にはビフィズス菌による腸管出血性大腸菌O157:H7感染予防の分子機構を世界に先駆けて解明、13年には腸内細菌が産生する酪酸が大腸炎を抑制することを発見した。
掲載のイラストを見てほしい。うんちの種類と健康状態を示している。
「毎日、フレッシュな黄褐色をした、バナナシェイプのうんちが出ているならば、おそらく問題はないでしょう。でも、硬すぎたり、軟らかすぎたり、黒かったり、鮮血が混じっていたら、身体の中で問題が起きているかもしれません」
うんちが黒かった場合、とくに今までに見たことのないような黒色のときは、肛門科を訪ねてほしい。
「大腸がんの危険性があるからです。大腸内に腫瘍があると、うんちが通るときにこすれて出血します。その血液がうんちに混ざっている可能性が考えられます。腸の上部での出血の場合は排泄までに時間がかかるので、酸化して黒くなる。肛門近くの出血だと赤が混ざっているうんちになる」
そう話す福田さんのいる研究所は山形県鶴岡市にある。最先端のバイオテクノロジーを用いて生物の細胞活動を網羅的に計測・分析し、コンピュータで解析して医療や食品などに応用する本格的なシステムバイオロジーの研究所だ。
ここで、福田さんが今もっとも力を入れている研究の一つが“便移植”である。
うんちを移植する
「病気の人の腸を一度きれいにして、そこに健康な人の便を移植する治療法が、便移植です。臨床研究が進んでいますが、便移植で患者の症状が改善されるケースがでてきました」
さまざまな病気の原因の一つに腸内フローラの乱れがあることが基礎研究でわかってきたため、薬の投与や外科的な手術とはまったく異なる発想である便移植の臨床研究が重ねられてきた。
具体的には、便移植は次のような手順で行われる。
(1) 健康な人のうんちを50~200グラム採取。生理食塩水と混ぜる。
(2) (1)をフィルターで濾過して、約200ccの茶色い液体をつくる。
(3) 大腸内視鏡を使い、(2)を患者の大腸に注入し、定着させる。
「欧米では偽膜性腸炎患者への便移植が成果を上げています。偽膜性腸炎は、抗生物質の投与などで正常な腸内細菌叢が乱れることで生じる感染症で、米国では10人に1人の割合で死にいたるといわれています。そして13年、『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』という権威ある臨床系学術誌に掲載された論文によると、1回目の便移植で約8割の患者が改善。治療効果の見られなかった2割の患者に2回目の便移植を行い、最終的には患者全体の9割以上が快方に向かったとされています」
このように、世界的に便移植の臨床試験が進んでいる。
一方日本でも、潰瘍性大腸炎において、便移植が成果を上げ始めた。
「潰瘍性大腸炎は、大腸内の粘膜に慢性的な炎症が生じ、びらんや潰瘍ができることで腹痛や下痢、血便、発熱などが生じる、原因不明で難病指定されている病気です」
安倍晋三前首相がこの病気にかかっていたことから、多くの人に知られるようになった。
「順天堂大学消化器内科の石川大准教授が、潰瘍性大腸炎患者への便移植を臨床研究として実施しています。便移植を実施した患者の約7割で症状が改善し、さらにそのうちの3割は寛解導入できたとのことです。これまでは症状を緩和させる対症療法の薬しかなかったので、大変な成果だと思います」
さらに、がんの治療にも希望が見えてきた。
「オプジーボというがんの治療薬があります。従来の抗がん剤よりもかなり成績の良い薬で、がん患者の2~3割くらいに効果があるとされています。では、効果がある患者とない患者はなにが違うのか――。その大きな要因の一つに、腸内細菌の種類やバランスがあることがわかってきました」
では、薬効を得るべく、腸内フローラを整えるにはどうしたらいいか。この点から研究が進み、ひとつの手段として便移植が注目されたのだ。
「薬が効きやすい腸内フローラの特徴がわかるなら、まず便移植で同じにしてしまえばいいという考え方です。現在、世界中で腸内細菌のさまざまな組み合わせが試されています」
便移植によって多くの病気の治療に希望が見えてきた。偽膜性腸炎、潰瘍性大腸炎、がんだけでなく、糖尿病や高血圧症などの生活習慣病の治療にも期待されている。
「現在、先進医療として偽膜性腸炎患者への便移植が行われており、今後潰瘍性大腸炎患者への便移植も進むと思われます。数年後には、これらの患者さんへの便移植が通常診療となることを期待しています」
ただし、便移植を行う場合、誰のうんちでもいいわけではない。
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