栗山巧は“生え抜き選手”のNPB最遅記録…「通算2000本安打」はまさに“人生の縮図”

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「もう2000本打ったのと一緒じゃねえか」

 最後に目前で2000安打を逃した男たちを紹介する。残り22本と最も近づいたのが、飯田徳治(南海→国鉄)。以下、23本の毒島章一(東映)、37本の小玉明利(近鉄→阪神)、72本の谷佳知(オリックス→巨人→オリックス)、88本の井端弘和(中日→巨人)と続いている。

 飯田は1958年5月24日の阪神戦でアキレス腱を切断し、1246試合連続試合出場の日本記録(当時)がストップ。このけがで残り92試合を欠場したのが惜しまれる。

 現役晩年に兼任コーチだった毒島は、田宮謙次郎監督から「もう2000本打ったのと一緒じゃねえか」と諭されて専任コーチになり、小玉は近鉄時代に兼任監督を務めた気苦労と、阪神移籍後に出番が減ったことが少なからず影響した。

 同じ移籍組では、谷も巨人移籍後、外野の激しいポジション争いで出場機会が減り、割りを食った感がある。2014年にオリックスに復帰したが、40歳を過ぎており、「(2000安打は)現実的に考えて無理だと思った」と翌15年限りで現役引退。最後の2年間で記録したのは、わずか7安打だった。

 井端も巨人移籍後の15年オフ、同世代の高橋由伸が新監督に就任すると、「彼より長くやることはないと思っていた」と引退を決意し、コーチに就任した。中日時代に“アライバ”コンビを組んだ荒木雅博が17年に48人目の2000本安打を達成しているので、大幅減俸をのんで中日に残留していれば、同一チームの1、2番打者が揃って達成していたかもしれない。

 また、通算1865安打の村田修一は、巨人最終年の17年に100安打を記録しながら、チームの若返り方針から自由契約になったが、他球団への移籍が実現していれば、あと2年程度で達成できた可能性もあった。

 2000本安打だけが野球人生の目的ではないにせよ、数字を通してさまざまな人間模様が浮き彫りになるのも、“記録の妙味”と言えそうだ。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2020」上・下巻(野球文明叢書)

デイリー新潮取材班編集

2021年9月9日掲載

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