栗山巧は“生え抜き選手”のNPB最遅記録…「通算2000本安打」はまさに“人生の縮図”

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“安打製造機”の名をほしいままに

 西武・栗山巧(38)が、9月4日の楽天戦で史上54人目の通算2000本安打を達成した。プロ20年目(実働18年目)、2041試合目での快挙だ。西武の生え抜き選手による達成は、前身球団も含めて初めて。球団創設72年目での第1号も、阪神と阪急の47年目を上回る“NPB最遅記録”である。

「名球会入りの条件」のイメージもすっかり定着した2000本安打だが、54人の達成者には、プロ1年目から活躍した天才打者もいれば、栗山のように長年の努力が報われ、大輪の花を咲かせた苦労人もいて、まさに「人生の縮図」である。そんな2000本安打にまつわるエピソードを振り返ってみたい。

 最年少達成者は、榎本喜八の31歳7ヵ月(※日米通算ではイチローの30歳6ヵ月)だ。高卒1年目から毎日の主軸を担った榎本は、1960年から3年連続でシーズン最多安打を記録するなど、“安打製造機”の名をほしいままにし、東京時代の68年7月21日の近鉄戦で、川上哲治、山内一弘に次いで史上3人目の2000本安打を達成した。

 昨年は、大台まであと「116」となった坂本勇人(巨人)が7月29日までに到達すれば、榎本の最年少記録を更新するところだったが、コロナ禍で開幕が3ヵ月遅れた結果、史上2位の31歳10ヵ月での達成となったのは、ご存じのとおりだ。

“超遅咲き”の確変ぶり

 一方、最年長は、和田一浩(中日)の42歳11ヵ月。あと「2」に迫った2015年6月11日のロッテ戦で、1、2回に2打席連続安打を放ち、プロ19年目で達成した。「プロ入りした頃は、2000本は異次元。目標でもなかった」と本人も言うとおり、史上45人目の快挙は、30歳以降の驚異的な猛チャージによって生まれたものだった。

 捕手として、西武に入団した和田は、外野手転向後の02年、30歳で初めて規定打席に達したものの、前年までの5年間で記録した安打は、わずか149本だった。

 34歳の06年終了時点でも、通算874安打と半分にも満たなかったが、中日移籍後の10年にキャリアハイの171安打を記録し、西武時代の07年から4年連続150安打以上をマークするなど、30歳以降に2000本の9割以上を固め打ち。“超遅咲き”とも呼べそうな確変ぶりだ。

 そして、最年長記録も思わぬアクシデントの結果、もたらされたものだった。あと15本に迫った14年8月6日の広島戦、和田は死球で右手首を骨折。残りシーズンを棒に振ってしまう。この死球禍により、達成が約10ヵ月遅れたことで、当時の最年長記録だった谷繫元信(中日)の42歳4ヵ月を塗り替えることになった。

 ちなみに、和田の達成時に中日の兼任監督だった谷繫は、ベンチからお祝いの花束を持って駆け寄り、「ひとつの区切りだぞ。まだまだだぞ」と和田にエールを贈っている。これも不思議なめぐり合わせである。

 谷繫は、最年長記録こそ和田に譲ったものの、2000本安打達成まで2803試合もかかっている。これは、現在でも史上1位のスローペースだ。さらに、生涯打率が2割5分に満たない唯一の達成者でもある。

「(2000本は)打てるなんて一度も思わなかった」という谷繫は、13年の達成時に「捕手では過去に野村(克也)さん、古田(敦也)さんの2人しかいない。3人目ということを考えると、よくやったんじゃないかな。常に7、8番を打っていて、クリーンアップを打ったわけじゃなく、コツコツやった積み重ねだと思う」と語っており、25年間チームの脇役に徹した末に手にした“努力の結晶”だった。

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