菅首相を追い込んだ「9月中解散報道」は誰が流したのか? 権力闘争の片棒を担ぐ記者クラブの存在
延命策か、弥縫策か、さもなければ先制攻撃か――。総裁選と解散総選挙のスケジュールを巡って二転三転した挙句、あえなく最後を迎えることとなってしまった菅政権。結果的には菅政権が代わると決まるや、株価が上昇したように、どんな策を弄したとしても、出口は明らかだったのかもしれない。
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突然の解散報道
ただ、気になるのは二転三転のスケジュールが出てきた経緯だ。8月31日夜のスクープ報道で、首相筋の話として「総裁選前の9月半ばに解散」と報じられた。が、翌朝には菅首相自らそれを否定した。いったい何があったのか?
スクープ合戦に敗れた、さる政治部キャップが言う。
「すでに前から解散説は流れていたんですよ。直前に二階、菅会談が赤坂の議員宿舎の中で行われており、それとは別に菅側近幹部の話し合いもあって、そこで“選択肢としての解散”が取りざたされていたといいます。そのあたりから菅首相の存在感を示す意味、良かれと思って解散話を流したと」
〈今、解散を打ったらどうなるのか分かってるよな……〉。選挙を打てば明らかな敗戦は見えていた、にもかかわらず、解散権をちらつかせるのは、菅側近のとあるマッチョな議員の仕業ともいうが、一方ではこんな説も流れる。
「菅さんを蛇蠍のごとく嫌うある閣僚経験者が、ことあるごとに、あることないことを記者に吹き込むんです。今回もまた菅さんのオプション潰しを目論んで話したと……」(同)
永田町の一寸先は闇とは言われるが、今回の一報は、これら複数説が入り乱れて、闇夜のうちに広がり、そして夜が明けると菅政権の命運とともに消えてしまった。
政治とメディアのもちつもたれつの「茶番劇」
と、ここまで見て思うのが、国民不在ともいうべき、コロナ禍での権力闘争。自民党内、官邸内の鞘当て、つばぜり合いの始終は国会のクラブ記者、政治家個々の番記者を通じて、国民に知れ渡り、ネットファーストの昨今は、世論調査の結果を待つまでもなく、その反応はニュースサイトの書き込み、SNS等で浮き上がってくる。そして、その動きに応じて政治家は敵対勢力を潰し次の一手を画策するし、報道サイドもアクセス数を稼ぐという。いうなれば「もちつもたれつ」の茶番劇。とくに今回の一件は、結果がほぼ見えていたがゆえに、一層そう見えてしまうのだ。ましてや、繰り返しになるが目下のコロナ禍――。
こんな政治と報道の関係はどんなところからくるのだろうか……。昔から有力政治家には各社から番記者が配され、それこそ肝胆相照らす関係を構築しては、そこから時の政局が発信されてきた。時には完全にインサイダーとなって政治家や秘書になってしまう記者もいたが、このような“事象”は、日本独特のものだという。そもそも記者クラブ制度自体、海外の報道では見ることができないのは、昨年のバイデンVSトランプの激戦報道を見ていれば明らかであろう。
日本独特の謎制度「記者クラブ」
では、この日本独自の記者クラブ制度というのはいつが起源なのか……。これについては『言論統制というビジネス』(里見脩著/新潮選書)に詳しい。一節を引こう。
〈その歴史は、1890年、第1回帝国議会開会に際して、新聞各紙が議会を傍聴取材するため団体を組織し、当局へ許可を願い出たことから出発している。警視庁は衆議院の議事取材として「在京新聞には一会期を通ずる傍聴券が25枚、地方日刊新聞には10枚を交付し、各紙の協議を以てこれを分配」することを許可した。これを受けて新聞各紙は「同盟記者倶楽部」を結成した。これが記者クラブの事始めである。〉
すなわち、国会傍聴券の獲得がその起源だというのだ。民主主義はもちろん、ジャーナリズムの意識も未成熟の時代に生まれたもので、当然ながら、そこには開かれた国会という今日的意識はない。しかし、ここで作られたシステムはその後、日清、日露の戦争で発達してゆく。
〈日清戦争の際に外務省が戦争支持の世論形成を意図し、清国との外交交渉の経過を公表することを決めたのに伴い、これを取材するため記者たちは「外交研究会」という団体を組織し、終戦後には常時、外交政策を取材する「霞倶楽部」という名称の記者倶楽部へと発展した。
日露戦争では、陸軍省に「北斗会」という記者倶楽部が発足、明治後期には主だった官庁、政党には記者倶楽部が生まれた。これら明治期の記者倶楽部は、日清、日露戦争において外務省、陸軍省に記者倶楽部が設置されたことが示すように、政府側が戦争支持の世論形成のため新聞の利用を意識し、新聞側も「情報の仕入先」として倶楽部の開設を望んだ。すなわち、戦争を契機とした政府と新聞双方の「利害の一致」の上に成立したのが、現在も続く記者クラブの原点である。〉
本書は戦時下における新聞報道のあり方を詳細に論じたものだが、記者クラブの起源をたどれば、「政府のプロパガンダ機関」としての姿が浮かび上がってくるのである。
先に示された「霞倶楽部」は名称もほぼそのまま、いまでも「霞クラブ」として外務省の中に存在するし、それぞれのクラブには週刊誌記者や外国記者などはもちろん、認められた加盟社しか入れないのは今も変わらない。
果たして、これが権力を監視するジャーナリズムということができるのか――昨今の永田町報道の「茶番」を見ていると、果たしてわれわれは、報道を通じて何を見せられているのか、改めて考えるべきなのかもしれない。