夏の甲子園で773球も投げて疲労骨折…「悲劇のエース」はこうして生まれた
「打たれても、打たれても」
最後に取り上げるのは、肘の故障を押して、一人で決勝戦まで投げ抜いた“悲劇のエース”だ。91年、沖縄水産は沖縄県勢初の全国制覇を目指していた。前年に続いて、2年連続の決勝進出をはたすも、エース・大野倫の右肘はボロボロだった。
大会前に痛めた肘は、曲がったまま真っすぐに伸ばせないほど悪化し、「夜中にあまりの痛さに目が覚めたこともあった」という。だが、同学年の控え投手が地区予選の前に、重病で入院したため、チームに頼れる投手は大野しかいなかった。大野は毎試合、痛み止めの注射を打ってマウンドに上がり、栽弘義監督も「可哀想だが、君しかいない」と毎日自らマッサージを施した。そんな苦しい境遇のなか、沖縄水産は強豪校を次々と倒して、決勝まで勝ち進む。
沖縄県勢初の優勝がかかった決勝戦。大野は、大阪桐蔭が誇る強力打線に滅多打ちされるが、「打たれても、打たれても、逃げる気持ちはまったくなかった」と自らを鼓舞しながら、最後まで投げ切った。
結局、8対13で敗れて、全国制覇の悲願は夢と消えたものの、「今終わってホッとしています。3年間頑張って、ここまで来た。うれしい」と最高の充実感を味わった。
その一方、力投の代償も大きかった。決勝までの6試合、一人で773球を投げ抜いた“悲劇のエース”は、大会後に疲労骨折が判明して、投手をあきらめざるを得なくなってしまった。
高野連は、93年から投手の肩や肘の検査を導入したが、そのきっかけとなったのは、大野であることは言うまでもない。大学で打者に転向した大野は、ドラフト5位で指名され、96年に巨人へ入団、2001年にはダイエーに移籍した。5安打、1本塁打、打率.161という成績を残して、通算7年間のプロ生活を終えている。
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