夏の甲子園で773球も投げて疲労骨折…「悲劇のエース」はこうして生まれた

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 夏の甲子園大会は、これまでにも数多くの好投手たちが熱いドラマを演じてきた。評判どおりの実力を発揮し、見事栄冠を手にした投手がいる一方、思わぬ悲運から敗れ去ったエースも忘れがたい存在だ。

「なぜストレートを投げなかったんだろう」

 1980年代にプロ野球界で「炎のストッパー」として活躍した男もそのひとりだ。南陽工時代の津田恒美(元広島)である。1978年春、センバツで三振の山を築き、8強入りにチームを導いた津田は、夏も連続出場。チームは優勝候補に挙げられていた。初戦の宇治山田商戦、津田は時には打たせて取る余裕も見せながら、被安打3、奪三振9で、2対0の完封勝利を飾った。

 だが、2回戦の天理戦では、津田は、いつもの球の切れを欠き、4回まで毎回安打を許すなど、苦しい投球が続いた。なぜなら、天理の各打者は、打撃投手をプレートの1メートル手前から投げさせ、津田の速球対策を十分に積んでいたからだ。

 そして、両校無得点でむかえた5回に試合が動いた。津田が8番・若井康至に対して、外角低めを狙って投げたカーブが、真ん中ベルト付近に浮き上がってしまう。若井が、無心でバットを出すと、その打球は左翼ラッキーゾーンに消えていった。

 津田は「野球を始めてから本塁打を打たれたのは初めて」とショックを受けながらも、気持ちを切り替え、その後は失点を許さなかった。だが、皮肉にも0対1の敗戦。たった1球の失投が明暗を分けてしまった。

「悔しい。なぜストレートを投げなかったんだろう」。試合後、津田は8番打者に直球勝負をせず、カーブを投げたことを後悔し、「もう少し投げたかった」との言葉を残して甲子園を去った。以来、津田は「弱気は最大の敵」を座右の銘に、攻めの投球を心掛けて、プロ入り後は広島の抑え投手として、一時代を築いた。

疲れから制球が甘くなり……

 次に取り上げるのは、延長10回までノーヒットノーランを続けながらも、初めて許した安打がサヨナラ弾という“悲劇”の主人公になった、境の安部伸一だ。

 84年の1回戦、法政一戦、安部は3回に1四球を与えただけで、唯一許した走者も盗塁失敗。初回から9回まで1本も安打を許さず、すべて3人ずつで片づけた。

 しかしながら、味方打線も法政一の下手投げ・岡野憲優の“遅球”にタイミングが合わず、散発4安打。8回1死一、二塁のチャンスも3、4番が凡退し、0対0のまま、延長戦に突入する。

 安部は10回も簡単に2死を取ったが、30人目の打者・末野芳樹は、一計を案じ、わざと“打ち気のないポーズ”で打席に立った。「打ち気のない恰好なら、きっと初球はストライクを取りに来る」というのがその理由だ。末野は、初球を思い切り叩きつけ、「絶対この回で決めよう」と必死だった。

 これに対して、安部は「僕のスタミナ切れを狙って、待球作戦で来る」と考えていた。「まさか初球から打ってこないだろう」と思い、初球に外角スライダーを投じた。

 運命の124球目は、疲れから制球が甘くなり、真ん中へ……。「待ってました」とばかりに、末野のバットが一閃し、打球はサヨナラ弾となって、左中間のラッキーゾーンに吸い込まれていく。ノーヒットノーランが途切れた瞬間がゲームセットという、あまりに残酷な結末だったが、安部は「最高のピッチングで高校野球を終えることができて満足です」と語り、胸を張って聖地を後にしていった。

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