塾講師からライターに転身した石原たきびさん 人生の転機になった瞬間とは
学習塾に就職した理由
『酔って記憶をなくします』などの編著書を持つライターの石原たきびさん。塾講師だった彼がライターという全く違う仕事に就くに至った、意外な転機とは……?
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出版業界に入ったのは遅咲きの28歳。それまでは東京郊外、東久留米市内の学習塾で中学生に数学を教えていた。その仕事に就いたのには、ちょっとした経緯がある。
地元の高校を卒業後に進学した信州大学時代は俳句に傾倒。また、バブル崩壊直後ということもあって、就職活動はうまくいかなかった。ならば、週4日ぐらい働いて、残りの日は俳句作りに没頭したい――。今思えば、のんきなことを考えたものだ。
求人情報誌を買ってあれやこれやと探してみたところ、この条件に合うのが塾講師。実家では妹や弟によく勉強を教えており、大学時代も塾講師のアルバイトをしていた。就職先としては、なかなかよいのではないだろうか。
マセて見えた東京の中学生
こうして、社員としての塾講師生活が始まった。上京して住んだのは武蔵境の木造アパート。家賃は3万円で風呂なしの物件だった。最寄りの銭湯の店主と些細なことで口論となり、駅向こうの遠い銭湯に通う羽目になったのも懐かしい思い出だ。
メインで担当したのは数学のクラスだったが、それほど大規模な塾ではないため、夏期講習などでは他の科目も担当することになる。結論から言うと、生徒の成績はぐんぐん上がった。とくに数学は多くの生徒が都立高校受験の要となる内申点を大いに伸ばす。
地方から出てきた身としては、東京の中学生はずいぶんマセて見えた。授業中の私語も少なくなかったが、中間試験、期末試験前になると目の色が変わる。志望校に入りたいという気持ちは強いのだ。そんな彼らの期待に応える形で、試験当日は本部に内緒で早朝直前補習を行った。
一方で、“やんちゃ”なお友だちが授業が終わる生徒を待って塾の前にたむろすることも時々ある。しかし、気付けば日曜日にその子たちと近所のグラウンドで野球の試合をしていた。そうなった展開はもう思い出せない。
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