「骨折」「車いすがボコボコ」 パララグビーのエース「池崎大輔」が語る凄まじい“快感”
車輪がハの字についた特殊な車いすが機敏に方向転換。かと思えば、横から別の車いすが猛スピードで体当たり。22種のパラスポーツの中で、最も激しい競技といわれる「車いすラグビー」。日本代表のエース、池崎大輔選手(43)に、競技との出会いや魅力を聞いた。「週刊新潮 別冊『奇跡の「東京五輪」再び』」より(内容は7月5日発売時点のもの)
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〈車いすラグビーの一番の魅力。それは車いす同士の激突だ。重い音とともに生じる衝撃で、選手が車いすごと弾き飛ばされることもある。その激しさゆえついた異名が「マーダーボール(殺人球技)」。世界の強豪チームから「あいつにボールを渡すな」と恐れられる池崎大輔選手に競技と自身の話を聴いた。〉
「ラグビー」といえば、醍醐味はやっぱり激しい「タックル」。車いすでどうやって?と思われるかもしれませんが、答えは簡単。車いすラグビーは、パラ競技の中でも唯一車いす同士がぶつかることを許されたスポーツで、車いすごと相手に突進して、車いすもろとも相手をなぎ倒すんです。
え、危なそう? そりゃラグビーだから絶対安全ではないですよ。僕らは競技用の車いすのことを「ラグ車」と呼んでいますが、正面衝突したときの衝撃は、大人が30人のしかかるような状態だといわれている。スピードを出してぶつかったときなんか、さすがに“ウッ”って息が止まりそうになってしまう。僕らのプレーを見ると、きっと“弱者”という障害者観が変わると思います。
〈車いすラグビーは4人制。障害の程度によって持ち点が設定されていて、最重度の0・5から最も軽い3・5まで0・5点刻みで、4人の合計が8点以下になるようチームが編成される。試合時間は32分。1ピリオド8分の4ピリオド制だ。コートはバスケットボール用と同じ大きさ。ボールは楕円形ではなくバレーボールを改良した球形で、敵陣のエンドラインに達したらトライとなる。〉
僕は「シャルコー・マリー・トゥース病」という肘や膝から先の感覚が麻痺し、筋力が落ちてしまう病気です。それでもチームの中では障害は軽いほうで、ポイントは3・0。身体の使える機能が多い選手を指すハイポインターと呼ばれています。役割はオフェンスだから一番危険そうだと言われますが、可哀そうなのは僕に全力でタックルされる相手チームのディフェンスの方ですよ。
時にはケガをしてしまうこともあります。あるとき、何気なくボールを拾おうと伸ばした手に相手のラグ車がぶつかり、掌の舟状骨という小さな骨が折れ、手術で体内にボルトを埋め込んだこともありました。
周りの健常者には大ケガだと心配されましたが、所詮は時間が経てば“治る”もの。一生治らない病気を背負っている僕からすれば、大したことないですよ。
〈池崎さんが1万人に1人といわれる難病「シャルコー・マリー・トゥース病」にかかったのは6歳のときだった。〉
それまでは活発な子どもでした。でも6歳頃から、平らな場所なのにすぐ転んでしまうようになって。そのうち脚はやせ細り、足首も動かせなくなった。
小中学生の頃は、脚に装具をつければまだ自力歩行ができたんです。もちろん走れば足は遅いけど、友人も普通に接してくれて、障害を引け目に感じることはありませんでした。
車いす生活になったのは、高校に入学してから。このときも悲観的になることはなくて、車いすバスケットボールをしたりしていました。この体でスポーツなんて一生できないと思っていたから、嬉しかったですよ。
高校を卒業してからも、宝石屋さんで店頭販売の仕事をしながらバスケは続けていました。でも、病気は無慈悲に進行しますから、筋力は弱まり、握力もほとんどゼロになってしまった。車いすバスケはラグビーとは違って、車いす同士がぶつからないよう手元でタイヤを握り、ブレーキをかける必要がある。なのに、それができない。シュートやキャッチもままならなくなってしまい、悩みましたね。
でも、そんなときに運命的な出会いがあった。車いすバスケの試合を、たまたま車いすラグビーの選手が見ていたんです。その人が、「一度練習見に来たら」と。
もしかしたら、僕のアグレッシブな性格が車いすバスケでは存分に発揮されていないと見抜いてくれていたのかもしれませんね。
後日、見学に行ったら、もう衝撃。選手たちが乗っているのは傷だらけの車いすで、フレームはボコボコにへこみ、そこら中にクラック(ひび)を修理した痕が付いている。車輪のカバーも衝撃で変形してしまっていて……。
車いすバスケをやっていた自分には、どうして車いすがあんなボコボコになってしまうのか理解ができなかった。でも、プレーを見れば一目瞭然。車いす同士が何の躊躇もなくぶつかり合っていて“それやっていいんだ”と、胸のつかえがとれたような爽快な気持ちになりましたね。
ラグ車が1年でダメに
相手にぶつかりそうになってもブレーキを掛けなくていいというのは、僕の障害にも、性格にもピッタリだった。それに、両手両脚に障害をもった人でもボールがつかめるようにグローブが着用できるし、タイヤと接触する部分にはラバー加工が施してあったから、車いすバスケで直面した障壁が一気に開けた気持ちでした。
試しにプレーさせてもらったら、ボールも軽いし、助走をつけて選手にぶつかったら、相手が1メートルほど吹っ飛んでくれて。しかも顔が辛そう。
“これスゲー! スッキリする~、快感~”
思わず感動して、短気でわがままで自己チューで、キックボクシングのような格闘技が大好き、という自分にピッタリだなと思いました。
そのとき自分の中のゴングが鳴ったんです。車いすラグビーのゴングが。
いまでも覚えています。そのとき30歳でしたけど、まったく年齢は気にならなかった。とにかく挑戦したい一心でした。
〈2008年に車いすラグビーに転向した池崎選手。2年後には日本代表に選出され、世界選手権で銅メダル獲得に貢献した。〉
僕の体は病気のせいもあって胴長短足。でも、これって実はラグビー向きなんですよ。胴長で上半身ががっしりしているから、車いすに乗ったときも重心が安定するし、ぶつかられても転倒しにくい。脚は細いし軽いからスピードもだせる。
しかも、15年間の車いすバスケの経験が生きていて、瞬発力を利用したターンやトリッキーな動きで相手を翻弄したりすることもできる。
もちろん、国際大会に出ると、外国選手の体はデカいし、動きが速いので、もっと鍛えなきゃと気づかされることも多いです。
タイヤは手のひらで押して回すので、そのときに使う上腕二頭筋・三頭筋、そして背中の広背筋、大胸筋は日頃から入念に鍛えています。それから、車いすがぶつかる衝撃から体を守るため、体幹トレーニングも欠かせません。持久力をつけるために、大学の低酸素室を借りてトレーニングしたこともあります。さらにパフォーマンスの質を維持しつつ当たり負けしないために体重を増やそうと、1年前から加圧トレーニングもメニューに加えました。
もちろん食事の管理も大切です。僕はもともと、焼き肉、ラーメン、すしが大好きな成人病予備軍のような食生活だったんですが、栄養士さんに、それじゃあダメだと言われて、食べ物の種類、食べるタイミングなどにも気を使っています。
これだけ自分を追い込んで練習するのは、もちろん金メダルを獲りたいから。ロンドンパラリンピックは4位で、次のリオパラリンピックでは絶対に“金”と思っていたのに、結果は“銅”。日本の車いすラグビー史上初のメダル獲得に周りは大喜びでしたが、なんだか「負けた証」が首からぶら下がっているようで素直には喜べなかった。
〈課題を自覚した池崎選手は、18年から米アリゾナ大のワイルドキャッツというチームに参加し、2シーズンをプレー。合間にはオーストラリアやカナダのチームにも加わった。〉
同じ環境にいると、どうしても自分に甘くなってしまいますからね。メンタル的にもフィジカル的にも向上しなければいけないと思い始めていたんです。
アメリカでは、初めて車いすラグビーを見たときに匹敵する衝撃を受けました。なにせ、ラグ車の破壊度合が日本とは比べ物にならない。試合数が多いということもあるんですが、ふつうは1年半~2年はもつラグ車が、アメリカでは1年でダメになる。タックルのスピードも重みも桁違いで、そりゃ勝てないわけだと納得させられましたね。
ちなみに、僕はアメリカ・ベセコ社のラグ車を使っていますが、自分のは1台150万円もするんです。買った軽自動車が毎年廃車になるようなもんだから、懐は痛いですよ。でもそれ以上に得られた経験は大きかったですね。
アメリカの全米選手権では、2シーズン連続してチームが優勝。個人的にも2年連続MVPをいただきました。
ただ、車いすラグビーというのはとても複雑なスポーツで、自分一人が成長したってチームの力は向上しません。僕のように障害の軽いハイポインターがボールを持って運ぶためには、障害の重いローポインターの選手に、相手ディフェンスをブロックして道を作ってもらわないといけない。逆に自分にマークが集中したときには、ローポインターの選手に前に走ってもらって、そこにパスを繋いで得点するとか。そうやって一瞬一瞬のプレーを読んで、ベストのコンビネーションが展開できるか。それが勝負を分けるんです。
〈車いすラグビーは、少しずつ、でも確実に池崎選手の人生を変えていった。〉
バスケをやっている頃は、ダメだったらそれでいいやって感じだったんです。でも倒れてもまた起き上がり突進していかないといけないラグビーは、否が応でも前を向かされる。
僕は、障害者も何かを究めれば生きていけるんだっていう希望を示したい。
それを伝えるためには、僕らが金メダルを獲るしかないんです。絶対に獲ってみせますよ。
取材・構成=西所正道