夏の甲子園で忘れがたい「奇跡のバックホーム」 決勝戦で大活躍した脇役列伝

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 今年で103回目を迎えた夏の甲子園大会。これまで深紅の優勝旗を手にしたのは、延べ99チーム(※第4回は米騒動、第27回は戦争、第102回はコロナ禍で中止)に上るが、その中には、決勝戦で意外な脇役が活躍し、チームを優勝に導いた“サプライズ劇”も少なくない。

愛甲の「一番のライバル」

 背番号10の控え投手ながら、決勝戦の大舞台で一世一代の快投を演じ、見事優勝投手になったのが、1980年の横浜・川戸浩である。大会屈指の左腕・愛甲猛(元ロッテなど)を擁し、優勝候補の横浜は、決勝で早稲田実と激突した。

 早実は1年生右腕・荒木大輔(元ヤクルトなど)が、準決勝までの5試合で44回1/3連続無失点と抜群の安定感を誇り、1点を争う投手戦が予想されたが、いざ試合が始まると、激しい点の取り合いになった。

 1回表に早実がスクイズで1点を先制すると、その裏、横浜も荒木に3長短打を浴びせ、連続無失点記録をストップ。さらにボークで2対1と逆転した。横浜は2、3回にも加点し、5対1とリードを広げたが、連投の疲れから、「初回にだるさを感じた」という愛甲は、球威、制球とも今ひとつ。4、5回に集中打で3点を返され、1点差に追い上げられた。

「このままだと、つかまってしまう」と案じた渡辺元監督(※渡辺元智氏、当時は『渡辺元』という名義だった)は、6回から愛甲を一塁に下げ、川戸をリリーフに送った。甲子園では2試合、2回1/3しか投げていなかったが、「川戸の3年間の努力を信じた」。この決断が吉と出る。

 他校なら間違いなくエース。愛甲も「僕の一番のライバル」と一目置く実力を持つ川戸は「こんな大試合で、リリーフで出るなんて、思ってもみなかった」と驚きながらも、「点を取られても仕方がない。一生懸命投げればいい」と開き直り、平常心で投げつづけた。いきなり先頭打者に安打を許し、四球で1死一、二塁のピンチを招いたが、無失点で切り抜ける。

 そして、6対4とリードした最終回も、2死一、三塁で、最後の打者を空振り三振に打ち取り、ゲームセット。優勝決定の瞬間、川戸は両腕を高々と上げ、「やったあ!」と何度も叫んだ。

 3年間黙々と打撃投手を務めてきた“陰の男”が、高校最後の晴れ舞台で、堂々の主役になった。

“サード狙い”の奇襲を阻止

 のちにプロ野球界で大活躍した選手も高校時代は脇役として力を発揮している。87年、脇役の持ち味を十二分に発揮して、PL学園の史上4校目の春夏連覇に貢献したのが、背番号14の2年生・宮本慎也(元ヤクルト)である。

 大阪大会で背番号16だった宮本は、本来なら甲子園メンバー(当時は15人)に入れなかったが、地区予選決勝で3年生の控え内野手が負傷したことから繰り上げでメンバー入りをはたす。

 連覇をかけた夏の甲子園、チームは順調に決勝まで勝ち上がったが、思わぬアクシデントに見舞われた。2本塁打を記録した主砲・深瀬猛が右肩を脱臼し、決勝の常総学院戦に出場できなくなったのだ。

 代役として三塁を守ったのは、宮本だった。「エラーをして先輩たちに迷惑をかけたら、申し訳ない」と緊張しまくり、試合前のシートノックではとんでもない悪送球を演じてしまうが、「今日は三塁に(打球が)飛んだら負けやぞ」というコーチの冗談まじりのひとことで気が楽になった。

 5回まで6つのゴロを無難に処理し、常総・木内幸男監督の“サード狙い”の奇襲を完全阻止。あまり期待されていなかった打撃でも、2回の甲子園初打席で2点目を呼び込む左翼線三塁打、4回にも追加点につながるエラーで出塁と結果を出した。そして、チームは5対2で勝利し、春夏連覇を達成した。

「常総は勢いのあるチームで、最後まで楽に勝てるとは思わなかったですね。勝って優勝が決まったときも、うれしい反面、ホッとしたという感じでした」(宮本)。その後、宮本は大学、プロでも日本一を経験したほか、2012年には通算2000本安打を達成し、球界を代表する選手に成長している。

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