「竜とそばかすの姫」で描かれた夢のない仮想世界 「ユートピア」と独裁制の不思議な相性(古市憲寿)
「嫌なことばかりだし、どこかへ逃げたい」。そんな妄想を誰もが一度は抱いたことがあるだろう。実際、昔から人類はユートピアという形で「ここではないどこか」を構想してきた。
かつてユートピアは、この世界のどこかにあると考えられていた。浦島太郎は海の彼方に存在する蓬莱山(現代版では竜宮城)に赴くし、アーサー王は伝説の島アヴァロンで最期を迎えた。トマス・モアの『ユートピア』も、新大陸に存在する三日月形の島が舞台だった。
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しかし大航海時代と大探検時代の結果、19世紀までには地球のほぼ全貌が明らかにされてしまう。もはや地上の楽園なんて存在しないことが白日の下に晒されたわけだ(川端香男里『ユートピアの幻想』)。
そこで人類はユートピアの舞台を未来に定めた。たくさんの未来小説が生まれ、次第にそれは進歩思想と結びつき、科学によって未来を夢見るユートピア論が大流行した。その残滓が今でも一部のおじさんを虜にする「空飛ぶ車」や「リニアモーターカー」である。
だが素朴に未来を信じられる時代も終わった。環境汚染や原発事故など科学がもたらした厄災を人類は多数目撃してきた。
この時代、ユートピアはどこにあるのだろう。一つは仮想世界なのかもしれない。実際、オンラインゲームには熱狂的なファンがいるし、よくフィクションの題材にも選ばれる。
しかし近年の映画で描かれる仮想世界には、あまり夢がない。見た目こそ自由だが、コミュニケーション能力や才能が、現実と地続きという設定が多いのだ。
細田守監督の最新作「竜とそばかすの姫」で描かれた仮想世界も「その人の隠された能力を無理やり引っ張り出す」というもの。「能力」がない人、誰かを傷つける「能力」に長けた人はどうしたらいいのだろう。
それでも仮想世界がユートピアに見えるのは、参入と離脱が容易で、何度でもやり直しが利くからだ。「世界共和国」のような統一国家論に「世界が一つしかないのは辛い」という批判がある。いくら平和で完璧な世界であろうと、逃げ場がないのは問題ではないか。
それに比べれば、仮想世界はマシだ。嫌になったらログアウトすればいいし、同時に複数の世界に住んでもいい。
興味深いことに、多くの仮想世界は、現実の政治体制になぞらえると、民主制ではなく独裁制を採用している。選挙や投票は実施されず、何か不満があっても問い合わせくらいしかできない。何なら行動も逐一監視され、一方的に追放されることもある。運営者が絶対的な権限を持つ世界だ。
考えてみれば、トマス・モアをはじめ「ユートピア」を管理社会として描く作品は少なくない。「どこかへ逃げたい」という発想の根っこには責任の放棄がある。管理されることは責任を免れる一つの方法だ。ユートピアが独裁制と相性がいいのは不思議ではない。責任を厳しく問う昨今の社会は、反動で独裁を求めてしまわないか心配だ。