【藤島メリー氏死去】 ジャニーズを創業から支えた美学とディズニーとの共通点

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良き理解者、偉大なる人物

 服部家とメリー・ジャニー姉弟は家族ぐるみでの交流があったのだ。

 その後1969年にジャニー喜多川が企画、演出しフォーリーブスが出演したミュージカル「少年たち」の音楽は服部克久が担当、また服部良一が作曲した「たよりにしてまっせ」はKinKi Kidsがカバーし、彼らのデビューアルバムに収録されているし、「青い山脈」は21世紀に入ってからもジャニーズJr.がライブなどで歌っている。

「93年の父の葬儀では姉弟ともに服部家の親族の席に座ってもらった。父愛用のピアノをジャニーさんにプレゼントしたら、とても喜んでくれてジャニーズ事務所の歌手の舞台で使ってくれた」(同)というから、相当の信頼関係が長きに渡って続いていたことになる。

 そんな姉弟は、ジャニーズ事務所創業後、大きく役割を分けて、事務所を成長させていくことになる。

 ジャニー喜多川は、メリーのことをこう語っていた。

「ビジネスサイドを担当するメリーは、僕に好き勝手なことを自由にやらせてくれる良き理解者、偉大なる人物だと思っています。台所が火の車でも、僕は一切知らされることなく仕事を進められる。彼女がいなければジャニーズ事務所もここまでやってはこれなかったでしょうね。僕たちはお互いにアメリカナイズされていますから、ビジネス面とプロデュース面とをはっきり分けて考えています。それぞれの能力も違いますしね」(SPA!1990年7月4日号)

 天才である創造者には、ビジネスの舵をとる理解者が必要――。

 ジャニーが亡くなって1年が経った日、強固な世界観をもったエンターテインメント企業は、創業者が亡くなってもその世界観は継承されていく――と、ウォルト・ディズニーを引き合いに出して、ジャニーズとディズニーの共通点を論じたことがある。(https://www.dailyshincho.jp/article/2020/07121101/?all=1

ジャニーズとディズニーの共通点

 実はジャニーズとディズニーにはもうひとつ共通点がある。

 天才ウォルト・ディズニーもまた、経営面では自身の兄を頼っていたのである。現在まで続くウォルト・ディズニー・カンパニーの源流となる会社の名前はその名も『ディズニー・ブラザーズ』。ウォルト・ディズニーの兄・ロイが創作に没頭する弟を支えるために設立、創設以後も、資金不足に陥ると、兄が銀行と交渉して危機を乗り越え続けたのだ。

 メリー喜多川もまた、天才である弟・ジャニー喜多川の創作を守るため、ビジネス面に徹し続けた人なのである。

 そしてそれはもちろん、弟だけではなく、事務所を、ひいてはタレントを守ることに繋がっていったのだろう。

 東山紀之の追悼コメントにはこうあった。

「メリーさんとの思い出の中で、忘れられない言葉があります。

『私はタレントを守る為なら、いくらでも悪人になります。』

 私たちを常に守り、その美学の中で私は人生を歩み進める事が出来ました」

 拙著『ジャニーズは努力が9割』で私は、ジャニーズ事務所を“ジャニー喜多川というひとりの天才と、天才に育てられた努力のタレントたち”という視点で捉えた。

 だが、ゴッホやカフカと名を挙げるまでもなく、日の目を浴びずに生涯を終えてしまう天才も世の中には多く存在する。

 ジャニー喜多川という天才が日の目を浴びることができたのは、やはりこのメリー喜多川の“美学”に守られてきたからではないか、と改めて思うのである。

霜田明寛
1985年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業。9歳でSMAPに憧れ、18歳でジャニーズJr.オーディションを受けた「元祖ジャニヲタ男子」。就活・キャリア関連の著書を執筆後、4作目の著書となった『ジャニーズは努力が9割』(新潮新書)は4刷を突破。 また『永遠のオトナ童貞のための文化系WEBマガジン・チェリー』の編集長として、映画監督・俳優などにインタビューを行い、エンターテインメントを紹介。SBSラジオ『IPPO』凖レギュラー。

デイリー新潮取材班編集

2021年8月18日掲載

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