松下幸之助の長女「幸子さん」は無念の死 ゴッドマザーの我執に抵抗し続けた経営陣

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1642億円の特別損失

 森下は正治にとって従順な羊のような社長だった。

 谷井が粛清されたのを見てきたので、森下は正治に全面服従した。

 松下電器は1円の価値を大事にする会社で、マツシタ銀行と呼ばれた。大作映画に100億円、200億円を湯水のように投じるのが当たり前のハリウッドの文化とは、水と油だった。

 松下電器はMCAを子会社と思っていたが、MCA側にはその意識はまったくなかった。カネは出すが経営には口を出さない“気前のいいパトロン”でしかなかった。

 1995年6月、MCA株をカナダの酒類大手シーグラムに4700億円で売却し、映画事業から撤退した。96年3月期決算でMCA株の売却損として1642億円の特別損失を計上し、568億円の連結最終赤字に転落した。

 MCA売却後の96年1月に開かれた経営方針発表会で、代表取締役会長の正治は、MCAには一切、触れなかった。

 91年1月の経営方針発表会で「MCA買収を決断したのは私だ」と大見得を切った本人がMCA問題を封印した。

悲願は「正幸の社長就任」

 大型のM&Aに失敗したら、それは経営トップの判断ミスである。判断を誤った経営者は経営責任を問われてしかるべきだ。MCAの買収を決断したのは会長の正治だった。しかし、正治の経営責任は不問に付された。

「神の一族」である松下家の家訓では、「失敗の責任は使用人に帰すべきもの。主が負うべきものではない」となっているのかもしれない。

 正治会長に従順に従う森下社長は、松下家への大政奉還、正治・幸子が悲願としてきた松下正幸の社長就任に向けて動き出す。

 正幸は幸之助の孫。長女・幸子と2代目社長・正治(娘婿)夫婦の長男である。1945年生まれ。慶應義塾大学経済学部を卒業して松下電器産業に入社。洗濯機事業部長などを経て、86年、40歳の若さで取締役に就任。常務、専務と昇進を重ね、森下が社長に就任して3年後の96年に副社長にまで昇りつめた。

 正幸を副社長にした社長の森下は「本気で正幸を社長にしようとしていた」(松下電器の元役員)。森下は「正治に社長にしてもらった恩義」があったからといわれている。正幸が“ポスト森下”の有力候補となったのである。

「正幸の社長就任」を阻止せよ

 これに山下俊彦相談役(当時)が激怒。97年7月15日夜に大阪市内で開かれた関西日蘭協会のパーティー席上で「創業者の孫というだけの理由で松下正幸氏が副社長になっているのはおかしい」「(松下家への大政奉還を阻止するために)年内にしかるべき措置をとりたい」とぶち上げた。

 これが導火線となり、世襲批判が社内外から巻き起こった。正治は「松下家だから社長になれないというのはおかしい理屈だ」と巻き返しを図り、社長の森下も正治に同調した。

 松下家の資産管理会社・松下興産の経営危機が暗闘に終止符を打った。松下興産は1952年、幸之助個人が出資する倉庫会社として産声を上げた。その後、マンション分譲などに事業を広げる一方、松下電器や松下電工(現・パナソニック電工)の株式を保有する松下家の資産管理会社になった。幸之助は1983年まで社長を務めた。

 幸之助が社長を退くと、事業は娘婿の正治の一家が引き継いだ。会長には正治、後任社長には正治の長女・敦子の婿、関根恒雄(85)が就任した。関根は資産管理会社だった松下興産をデベロッパーに大変身させた。彼は正幸の家庭教師から出発し、正治一家に食い込んで、ファミリーの一員にまで成り上がった。

 新潟・妙高高原や北海道・夕張のスキーリゾート、和歌山のマリーナシティなどのリゾート投資で、松下興産はピーク時には1兆円の有利子負債を抱え、倒産寸前だった。再建には松下電器の資金面での支援が不可欠で、松下電器主導で松下興産は清算された。マンションなど優良事業を引き継ぐために外資系投資ファンド傘下の新会社、MID都市開発を設立。この時点で松下の名前が社名から消えた。

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