松下幸之助の長女「幸子さん」は無念の死 ゴッドマザーの我執に抵抗し続けた経営陣
「熱海会談」で復帰
幸之助が営業の最前線に復帰するのは1964年7月である。今なお語り継がれている「熱海会談」を経てであった。
松下電器の販売網は、不況と生産過剰のため瀕死の状態に陥っていた。会談では販売会社や代理店から苦情・批判が相次いだ。幸之助が「血の小便が出るまで苦労されましたか」と反論したのは、この席である。もろもろのクレームを聞き、結局、幸之助は「松下電器が悪かった。この一言に尽きます」と、ハンカチで目頭を押さえながら声を絞り出すようにして詫びた。
すると、先ほどまでの喧騒がウソのように静まり返り、会場からは幸之助に対する激励の言葉が一斉に寄せられたという。
幸之助は熱海会談の後、ただちに営業本部長代行として陣頭指揮を執った。この時の迅速な対応から幸之助の経営手腕は高い評価を受け、「経営の神様」と崇められるようになる。
これは、自ら後継者に指名した正治に対して、自らの手で「社長失格」の烙印を押したことを意味する。これ以降、両者の確執は抜き差しならないものになった。幸之助が亡くなるまで、二人が和解することはなかった。
米MCAの買収
正治は社長[在任1961~77年]時代、実権のない飾り物だった。1977年、正治が会長になり、24人抜きの大抜擢で「山下跳び」と評される山下俊彦(1919~2012)が第3代社長(同1977~86年)になっても、お飾りの立場は変わらなかった。
幸之助は1989年4月、天寿を全うした。“天敵”の幸之助が亡くなり、松下家の新しい家長となった正治は、それまで不遇の時代の鬱憤を晴らすかのように、実力行使に出た。全知全能の権力者として振る舞うことに快感を覚えたのかもしれない。
1990年11月26日、松下電器は米MCA(現・ユニバーサル・スタジオ)の買収を発表した。買収総額は61億3000万ドル(当時の為替レートで約7800億円)。日本企業として、それまでで最大の買い物だった。MCAはハリウッドを代表する映画とエンターテインメントの会社だった。
1991年1月10日、大阪府枚方市の松下電器体育館で毎年恒例の経営方針発表会が開かれた。4代目社長の谷井昭雄(93)[在任1986~93年]の経営方針説明に続いて、会長の正治が登壇。最終決定したMCAの買収の裏話を披露した。
MCA買収は社長の谷井ではなく、会長の正治が決断したものだった。
ソニーへの対抗意識
「後ろを振り返ってみると、誰もいなかった」。この言葉に、正治は全役員が消極的な反応を示すなかで、このビッグディール(買収)を成功させた、と自信満々の表情で語った。
社長の谷井は映画会社を経営できる人材が1人もいないことから、当初、MCAの買収には消極的だった。それでも買収に踏み切ったのは、米コロンビア映画を買収したソニーへの対抗意識に衝き動かされたからだ。
1989年、ソニーはコロンビア映画を買収し、ハード(テレビ)とソフト(映画)の融合を華々しくぶち上げていた。このままではソニーに負けてしまうという焦りから、MCAに飛びついた。
買収発表会見の席上、外国人記者から「もしソニーがコロンビアを買収しなかったら、松下はMCAを買っただろうか」という、意地の悪い質問が飛んだ。愚直なほど一本気の谷井は、一瞬、口籠った。一拍、いや二拍置いて彼は、「われわれは独自に決断した。他社の動きとは、まったく無関係です」とムッとした表情で答えた。
もともと明確なビジョンがあったわけではない。幸之助の鼻を明かしてやる――。幸之助憎しに凝り固まっていた正治が、幸之助路線から決別するために選択したのが、MCAの買収だった。
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