23区の工場島になぜラブホテルが? テレ東・名物ディレクターが訪ねてみると――
東京でありながら結界をまとった島
まだ、夕暮れまで少し時間がある。せっかく、大きな風呂があるので、汗を流す。まさかのジャグジーつきだ。浴室テレビまでついている。一人ではしゃいでいると、そろそろ笑点も終わる時間になってきた。
部屋に差し込む光も、さきほどより一層赤みを帯び、影も長くなった。窓から外をのぞくと、見事に燃える夕日が、今まさに、東京の彼方に沈もうとしていた。東京でもっとも早い夕日だ。東京の全てが、一日の最後の輝きにつつまれ、闇に飲まれようとしている。
返す返すも、月島食品工業と、砂町アスコンの寮がうらやましい。こんな光景を毎日独占できるのだろうか。
それは、まさに巡礼のような神秘さをまとっていた。東京という土地でありながら、結界をまとったこの島で、東京のすべての業を、真っ赤に燃える太陽が洗い流し、その中で起きるすべての行為に赦しを与え、祝福する。
そんな宗教儀式に通じる神秘性がある。妙見島は、江戸川のモン・サン=ミシェルだ。そこは外界と隔絶された祈りの場だ。
東京23区の果ての島で、孤独を包み込む恍惚にふれ、すっきりした思いで部屋をあとにした。
「やることやりたくて来るんだけど、みーんな幸せそうなの」
「ステーキピラフ、とてもおいしかったです」
「はは。ありがとう」
「あの、いま幸せですか?」
とっさに、その言葉が口に出た。
「幸せだよー!」
あまりの力強さに、思わずさらに聞いた。
「なぜですか?」
「だって、ここに来る人は、みんな幸せそうなんだもん」
「ああ……」
「そりゃそうでしょ。ここに、不幸せそうに来る人いる? いないでしょ。やることやりたくて来るんだけど、みーんな幸せそうなの。人の幸せを見てたら、幸せでしょう。そりゃ自分のこと不幸と思ってたら 人の幸せを幸せって思えないかもしれないけど……」
「けど?」
「まぁ、別居とかしたこともあるけど……。わたしは夫とラブラブだから! はははー」
「市中の山居」に住みたい
外に出ると、あたりは深いブルーと紫の世界につつまれ、来た時にはまだついていなかった看板のLEDがレインボーの光を放っていた。浦安橋付近に忽然とあらわれるその場所に、人は幸せをかみしめにいくのだ。
対岸から闇に包まれた島を見ると、アスコン会社の寮の部屋にはあかりが灯っていた。夕食を食べているような部屋、男がただボーッとテレビを眺めている部屋。いくつもある、同じ形の窓の中で演じられる、それぞれまったく異なる、ただただ普通の営みに、胸が締め付けられるような愛おしさを感じた。
幸せとは何か。愛する人とうまくいかずに味わう孤独も、信じる価値を否定される挫折も、それでも思いをつらぬくことで味わう貧窮や侮辱すらも。そうした、ままならない人生すべてを肯定できる強さを持つことだ。
その過程で生じる軋轢や不安から逃げてはならない。あくまで、そうした場に身をおきながら、考えをつきつめることで、自らにゆるがぬ結界が生まれる。時にそれは、思考においてだけではなく、もっと体験的な地理的結界であることさえある。
市中の山居に住みたい。
東京23区の島へ行きたい。
それはそうした思いの発露なのかもしれない。
そして、そうした状況の中でも、ゆるがぬ思いの向かう方向を示す確かな指針を見失わぬことが大切だ。かつて漁師たちがつねに心のよりどころにした、不動の妙見のように。
「東京の異界」を生きる人々
これまで東京23区の島で出会った人々は、どこか、東京の異界を生きていた。思うようにすべてがうまくいったわけでもない。人と同じ生き方にどうしてもなじめず違う生き方に幸福があると信じた人もいた。
だが、そうした生き方は、一筋縄ではいかない。苦痛をともなう。けれど、向かうべき目的地は、決して定まっていないわけではない。苦しみの中、進んでいかなければならない。心地よさの中にいるだけでは、決して人と違う道、新たな道は歩めない。
「苦しみ働け、常に苦しみつつ常に希望を抱け、永久の定住を望むな、この世は巡礼である」
幸せとは何か。そうした苦節にみちた巡礼の中で、出会う人々を、それでも心のそこから祝福できる。それを「幸せ」というのだと思う。
「あけぼの湯」をあとにすると、ゆうに20時を越え、外食できるような店はすべて閉まっていた。
不幸せとは、この程度のことだ。
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