中央区に「月1.5万円」で住める一軒家が 銀座まで数分…都心の島・佃島の魅力とは
すべり台の空きを待っていると……
あたりをうろちょろするが、堤防より高い建物は見当たらない。あきらめて、公園のベンチで休憩することにした。シーソーやブランコで遊ぶ子どもたちと、近くで話し込む母親たち。公園でベンチに男一人で座っているだけでも危険だが、あまり凝視すると不審者に見られ、和やかな場に不穏な空気を呼び込む危険があるので、なるべく遠くを見ようとしたら……。
「あった!」
立てば堤防の高さを超えられるジャングルジム兼すべり台が、あった!
思わずベンチを立ちそうになったが、思いとどまる。子どもたちが、まだ遊んでいる。40歳近いおじさんが、子どもたちが遊ぶすべり台に、一人で現れ、黙って階段を上り始めたら、怖すぎるだろう。
じっと待つ。
文人たちが眺めた、風光明媚な景色はどうなっているのか。オシャレデザイナーズ階級の住民だけに独占はさせない。天と地を交互に見つめ、その視界の端にかすかにそのすべり台を感じながら。子どもたちは、ひっきりなしに入れ替わり、なかなか完全に無人にはならない。精神を研ぎ澄ませる。
「木をめっちゃ植えて 1週間、木しか植えてなかったんだ」
精神を研ぎ澄ませすぎて聞こえてきてしまう、近くの遊具で遊ぶハーフの小学生が友人に語る話の内容が気になりすぎる。どういうシチュエーション?
永続的ではない美しさ
体感時間で1時間、実際には15分くらい待った時、ようやく空いた!
うんこをもらすのを我慢する人のような、本能がけしかけるあせりを制御する歩みで、すべり台に歩み寄った。
そして、てっぺんへ登ると、思わず嘆息した。
堤防の向こうの視界が一気に広がる。海に変わった晴海運河と、豊洲の高層マンション群、そしてはるか北にはスカイツリー。
東の空は、地平近くのメロン色がかすかに混じったクリーム色から天に向かって、オレンジ、ピンク、水色、そしてそのところどころにさしこむ灰色の霧雲との境界は紫と、何万年と時が繰り返そうと、ただ一度しか見せない、偶然が作り出した美しさを放っている。
残念ながら房総半島は、いまは見えない。それは、この雲と同じく、ある時代の一時代に偶然に現れ、その時そこに滞在した文人や住民に切り取られた美しさだ。
佃の路地や、新旧入り混じる島の魅力もそうだろう。その美しさは永続的ではない。日々切り取らなければ、必ずいつか消えてしまう。しかし、切り取ろうと思えば、いつでもその刹那の美しさや面白さは切り取れる。
そして、美しさとは、おそらく主観的なものだろう。そして、美しさとは、おそらく落差だ。その空を私が、とりたてて美しく感じたのは、乗り越えるべき堤防という明らかな障壁があったからだろう。
ならば、その堤防は明らかに私にとって歓迎すべき存在だった。レバカツ屋へ向かう、日が暮れ少し妖しさを増した路地をすり抜けながら、そう考えた。
「すいません、レバカ……」
「終わったよー」
「……」
乗り越えるべき、「レバカツの我慢」という壁を得た。次回食べるレバカツは、より旨く感じられるはず、と心に言い聞かせながら、向かいの肉屋でチャーシューを買って帰った。
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