「諭吉は見ている?!」ふかわりょうが考える、「お会計」の美学
レジ前での攻防
ふかわりょうが刊行したエッセイ集『世の中と足並みがそろわない』(新潮社)は、発売日に即重版するなど話題に。そんなふかわさん、「お金に振り回されない男」でありたいと思いながら、ついつい「お会計」を巡るアレコレが気になってしまうそうで――。
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「ここは私が払いますね」
「いやいや、私が払いますよ」
「いいえ、この前払ってもらったので、今回は私が」
「何をおっしゃいますか、私が払いますから」
レジの前で繰り広げられる淑女たちの伝票綱引き。今にもラグビーボールのように抱えて走り出しそうな勢いです。私が店員だったら、審判になって旗をあげたりしたいものですが、この光景は日本特有のものかもしれません。
「私が払うから」と言われ、即座に「じゃあお願いします」と言ってはいけない暗黙のルール。必ず引き留めないといけません。支払いにたどり着くまで数回の往復が必要で、この掛け合いの中には「いたわり」や「優しさ」、「甘え」があり、時に「永遠性」すら感じることもあります。餅つきのような阿吽の呼吸と、リズムに乗って響くハーモニー。たとえ払う気が無くても、相手を信じて「いえいえ、私が」と発し合う様子は、奪い合いではなく譲り合い。奢ってもらうのは申し訳ないという気持ちと、奢ってもらえるのかなという淡い期待と。それぞれの思惑が交錯する午後の喫茶店は、もはや芸術作品と言ってもいいかもしれません。
支払うことが「勝利」でも「敗北」でもありません。息を合わせて会計に到達することが重要で、2人だろうが3人だろうが、そのやりとりが美しければ美しいほど芸術性が高まる種目。逆に、「じゃぁ割り勘にしましょう」となるのが一番ダメで、その無難な着地は大きな減点対象となり、観客も興ざめです。
「え? いいんですか?!」という雰囲気
「割り勘」といえば、若者の間ではデートでの割り勘が普通になってきているそうです。これも世代の違いでしょうか。昭和生まれの私の感覚だと、デートは男が払うのが当たり前で、女性に払わせるなんて以ての外。借金をしてでも奢るものと、「ホットドッグ・プレス」に教わりました。だから、いまだに「割り勘にしよう」とは口が裂けても言えません。
初めてのデートは高校生の時。お金がないからひたすら歩く、山下公園や外人墓地。流石に当時は割り勘でした。高校生で奢っていたら、ちょっと不自然でしょう。奢り始めるのはもう少し大人になってから。「アッシー」や「メッシー」にこそならなかったものの、前述のファッション誌の影響もあり、男が払うことが当たり前という価値観が刷り込まれます。好意を支払いで表している場合もあるし、狩猟民族が獲物をぶら下げて帰ってくるように、いいところを見せたいという見栄もあるでしょう。奢ることによって、社会的に余裕があることを見せたい。そうして、割り勘にしていた高校生もやがて、女性がトイレに行っている間に支払いを済ませておき、「もう済んでるよ」と、まるで手品でも披露したかのようにドヤ顔を決めたり、クレジットカードの色をそれとなくチラつかせる紳士に成長しました。男は、問われてもいないのに、クジャクが羽を広げるように財布を広げ、己の真価を誇示する生き物。今さら割り勘が当たり前と言われても「男性が払うもの」「先輩が払うもの」「割り勘はセコくてケチ」という固定観念や先入観を破壊できないのです。
ただ、奢ったとき、相手側に財布を出す素ぶりがあるかどうかは極めて重要なところ。なんとも思わず、奢られて当然だと思っている人に使用する1万円は、実質2万5千円の出費に相当します。「え? いいんですか?!」という雰囲気を嘘でも作っていただければ、出費の痛みは和らぎます。さらに、「いや、いいんだって! また来ようね」と格好つけさせてほしいのです。ここでも、冒頭の伝票綱引きに似た、相手を思いやる気持ちが求められます。だから、「ごちそうさまでした!」が聞こえてこないと、ものすごく後悔した気分になったり。
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