米で刊行『プーチンの仲間たち』が暴く「KGB政権」の深い闇
7月末にロンドンで始まった1冊の本に対する名誉棄損裁判は、ロシアの内政に微妙な影響を与えるかもしれない。
原告は、「石油王」と呼ばれたロシア有数の大富豪で、英サッカーチーム「チェルシー」のオーナーであるロマン・アブラモビッチ氏。訴えられたのはウラジーミル・プーチン大統領と政権幹部の暗躍を描いた『Putin's People:How the KGB Took Back Russia and Then Took On the West』の著者で『ロイター通信』の女性記者、キャサリン・ベルトン氏と出版社だ。
アブラモビッチ氏は、同書が「チェルシー買収はプーチン大統領の指示」などと書いたことが名誉棄損に当たるとして裁判を起こした。大統領側近のイーゴリ・セチン「ロスネフチ」社長らも訴訟を起こしており、クレムリンが同書の内容に神経を尖らせていることが分かる。
邦訳はなく、日本ではほとんど知られていないので、クレムリンを刺激したとみられる同書の機密情報をピックアップしてみよう。 昨年、米国のFarrar,Straus and Giroux社から出版された同書『Putin's People(プーチンの仲間たち)』は、「プーチン政権の迷宮に肉薄し、ジョン・ル・カレの小説のよう」(英紙『ガーディアン』)、「ロシアの闇をこれほど精力的かつ説得力ある形で記録した本はない」(英紙『テレグラフ』)などと欧米で絶賛され、英誌『エコノミスト』などが「ブック・オブ・ザ・イヤー」に選んだ。
89年「ドイツ銀行会長爆殺事件」にも関与?
著者のベルトン氏は2007年から13年まで、英紙『フィナンシャル・タイムズ』のモスクワ特派員を務め、調査報道を得意とする。全624ページの同書は、プーチン政権に近いマフィアやビジネスマン、政権に反旗を翻した新興財閥など多数の関係者へのインタビューを基に、
「KGB(旧ソ連国家保安委員会)のOBクラブがソ連崩壊後の国家機関と経済を密かに、かつ確実に支配した」
としている。
同書は、プーチン政権の基礎はプーチン氏がKGB将校として旧東独のドレスデンに駐在した1980年代後半にさかのぼるとし、ドレスデンのKGBが西側の犯罪組織と連携してかく乱工作に従事したと指摘。1989年に自転車爆弾を使用したドイツ銀行会長爆殺事件は、実行犯の「西独赤軍派」をドレスデンKGBが支援していた疑いがある、と分析した。
ベルトン氏は、プーチン大統領がキャリアの各段階でKGBの手法や人脈、ネットワークを効果的に駆使し、独特の世界観を形成したとし、
「ドレスデンの4年半、未来のロシア大統領は秘密の銀行口座を開設し、破壊活動家やテロリストと秘密接触を行っていた」
と告発した。
帰国したプーチン氏はサンクトペテルブルク副市長を務めるが、同書は、プーチン副市長がかかわった石油売却・食料購入計画の不正を描き、
「食料はほとんど購入されず、利益は裏金として別の事業の資金源となり、プーチンの仲間たちを潤した」
などと書いている。ペテルブルクでプーチン氏は、港湾の組織犯罪と連携して違法な資金を確保し、「KGBとマフィア組織の同盟が成立した」という。
チェチェン「劇場占拠テロ」は自作自演とも
同書で最も衝撃的なのは、プーチン時代初期に頻発した、チェチェン共和国独立派武装勢力によるテロ事件をめぐる記述だ。
2002年10月、モスクワのドゥブロフカ劇場を武装したチェチェン過激派約40人が襲撃し、約900人を人質に取る事件が発生。治安当局は3日後に非致死性化学ガスを浴びせて解決を図り、人質115人が死亡する悲劇となった。この事件では、犠牲があってもテロに断固立ち向かうプーチン政権の強い姿勢が示されたが、ベルトン氏はそれとは異なる分析をしている。
同書は内部情報に基づき、劇場占拠事件は当時のニコライ・パトルシェフ連邦保安局(FSB)長官が、「プーチンの大統領としての権威を定着させ、揺らぎかけたチェチェン戦争への評価を立て直すため」に計画したとしている。
パトルシェフ氏はプーチン大統領に対し、占拠は一種の偽装演習であり、雇われたテロリストは本物の爆弾を持っていないとし、
「プーチン大統領は最終段階で英雄として登場し、テロリストはFSBの保護下でトルコに移送する。民間人の犠牲者を出さずに人質事件を終わらせ、威信を誇示する偉大な指導者になれる」
と説得したという。
しかし、チェチェン人が占拠直後、観客1人を射殺したことですべてが制御不能に陥り、プーチン大統領はパニックに陥ったという。むろん、ドミトリー・ペスコフ大統領報道官は「完全なナンセンス」と否定した。
同書は、第二次チェチェン戦争の契機となった1999年のアパート連続爆破事件も政権側の自作自演の疑いがあるとし、現在安保会議書記を務めるパトルシェフ氏の黒幕説を指摘。
「飲んだくれのKGBの男が、富を集めるという資本主義の強い倫理観と、ロシア帝国の復活という壮大なビジョンを結びつけた」
と分析した。
「ユコス弾圧」から「皇帝」に
同書は、劇場占拠事件でテロリストを気絶させるため、化学ガスの使用を推進したのが、セチン「ロスネフチ」社長だったと書いている。
国営石油大手「ロスネフチ」は、民間の石油最大手「ユコス」を強引に吸収して膨張したが、同書は、「ユコス」創業者のミハイル・ホドルコフスキー被告(脱税などの容疑で逮捕・起訴)にどのような量刑を下すかを判事に指示したのはセチン氏だったと指摘した。「ロスネフチ」はこれらの記述を名誉棄損として提訴しており、裁判が後日ロンドンで開廷される。
「ユコス」弾圧の経緯はよく知られているが、同書は、2003年に「ユコス」を一網打尽にしたことが政権体質を変える決定的な転機となったとし、それ以来、プーチン氏はまるで皇帝のようにロシアとその資源を支配し、友好的なオリガルヒ(新興財閥)と旧KGBの幹部に支えられている、と書いた。
裁判につながったアブラモビッチ氏の「チェルシー」買収劇のくだりも興味深い。同書は、プーチン大統領が2003年、アブラモビッチ氏に対し、英国でのロシアの知名度を高めるため、英国のサッカークラブ買収を指示したとし、
「汚いカネを使ったモスクワによる西側浸透工作だった」
と書いた。
このエピソードを暴露した1人は、かつて政権に近いオリガルヒで、後に反旗を翻して西側に亡命したセルゲイ・プガチョフ氏。情報源として、失脚した元オルガルヒらの証言を多用していることが気になる点だ。
同書はエピローグで、
「プーチンとKGBの取り巻きたちは、ソビエト体制が犯した過ちを繰り返している。彼らはロシアに再び硬直化した権威主義政治体制と、イノベーションを疎外する腐敗した経済を作り上げた。90年代にはまだ可能性があると思われた繁栄と政治的ダイナミズムは失われ、ロシアは再び貧困と無気力に陥っている」
と指摘。
「一方で、プーチンと彼の仲間は繁栄しており、それが最も重要な目標だった」
と結論付けた。
浮き彫りになるトランプ氏との癒着の全体像
同書は最終章で、プーチン政権に近い新興財閥とドナルド・トランプ前米大統領の30年にわたる癒着を取り上げ、ロシアの情報機関や犯罪組織、それに連なるビジネスマンやブローカーの「緩やかなネットワーク」がトランプ氏を育てたと指摘した。
トランプタワーのマンションを現金で即金購入したり、2008年にフロリダ州のトランプ氏の別荘を9500万ドルで購入したオリガルヒの逸話が紹介され、ロシアがビジネスで苦境に立ったトランプ氏を救済したことが描かれる。ロシアの銀行は、トランプ氏の組織を破産から防ぐために資金を還流させたという。
「トランプ氏はロシアの資金提供者から数億ドルを受け取っている」
との記述もある。
プーチン政権とトランプ氏の癒着をめぐる情報は、2016年の米大統領選後、欧米メディアで報道されているが、同書の新味は全体像を浮き彫りにした点かもしれない。
同書は、ウクライナの街頭行動で親米派大統領が誕生した2004年のオレンジ革命を目撃したプーチン政権が、「米国のカネと情報工作の結果であり、次にプーチン政権の転覆を狙う」というパラノイアに陥り、対抗措置として米国かく乱工作に着手した。
2005年には、政権に近いオリガルヒが西欧諸国で偽情報をネット上で流したり、親露派論調を広げるネットワークを組織し、フランスの「国民戦線」(現「国民連合」)やイタリアの「北部同盟」(現「同盟」)など反米政党を支援した。今日、ウクライナ東部で独立を推進する親露派勢力の秘密訓練も、2005年に始まったという。
トランプ氏への支援も、「将来的に、西側の制度や民主主義を弱体化させ、腐敗させる工作の一環」としている。
ロシアが待望したトランプ政権の4年間は、議会や世論の反露感情に阻まれ、親露政策は実現できなかったものの、「米国の混乱と弱体化」を助長する点では成果があったことになる。