まるで野球漫画だ!“ミラクル快進撃”で甲子園出場を果たしたチーム列伝
青空を見上げるパフォーマンス
同じ01年、長野大会で、“もうひとつの奇跡”が起きた。1966年夏に甲子園初出場をはたした塚原青雲は、生徒減少で体育コースが廃止され、野球部も同コース最後の3年生13人と1年生4人の17人だけになった。
3年生が卒業すれば、チームが組めなくなり、そのまま廃部になる可能性も強かった。部存続を願う羽鳥均監督は「学校や卒業生のためにも甲子園に出よう」と檄を飛ばした。甲子園に出場して知名度がアップすれば、入学志望者が増え、廃部の危機を乗り越えられるかもしれないと一縷の望みを託したのだ。
好投手・長谷川陽一を擁し、春の県大会では4強入りした同校だったが、その前には佐久長聖、長野商の2強が立ちはだかっていた。だが、塚原青雲は不思議な力に後押しされたかのように、連日苦しい試合を勝ち上がっていく。
準々決勝では、武蔵工大二に9回1死から逆転勝利を収め、準決勝では長野商の好投手・金子千尋(日本ハム・金子弌大)に12三振を奪われながらも、わずか3安打で2対0と逃げ切り。決勝の佐久長聖戦も、二塁に達した走者5人中4人が生還するという効率の良い攻撃で4対1と勝利し、35年ぶり2度目の甲子園を実現。
赤嶺勇作主将は「少ない部員で最初は辛かったが、逆にまとまったのが大きかった」とチームの和を強調し、羽鳥監督も「少人数でもあきらめずに頑張れば何とかなる」とナインの健闘をたたえた。
そして、甲子園でも1勝を挙げ、ピンチのたびに内野手がマウンドに集まって青空を見上げるパフォーマンスは、爽やかな印象を与えた。“真夏の奇跡”を全国にアピールした野球部には、翌春17人の1年生が入部した。その後、04年夏と創造学園大付時代の07年春にも甲子園に出場し、18年から松本国際に校名が変わっている。
今回の記事では割愛するが、18年の三重大会では10年連続初戦敗退だった白山がノーシードから頂点を極め、“日本一の下剋上”と呼ばれるドラマもあった。今年も不可能を可能に変える球児たちの熱いドラマを期待したい。
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